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【番外編】境界の釣り師 2.クレーレ

 ほとんど音を立てずに寝室の扉がひらいた。  暗い室内にひそやかな足音がたつ。クレーレは寝台に横たわったままだった。扉がひらいた瞬間に眼は覚めていた。  衣擦れがきこえ、床にぼとりと何か落ちた小さな音が響く。上掛けがめくられ、クレーレの隣に重みがかかって、寝台が軽く揺れた。  クレーレは眼を閉じて動かなかったが、上からのぞきこまれているのはわかっていた。ひたいと眉にひんやりした指が一瞬触れてすぐに離れる。もぞもぞと身動きする気配のあと、敷布の上に体が入りこみ、上掛けをひっぱりあげた。こちらに背中を向けて体をまるめたところで、クレーレは眼をあけ、手を相手の肩にかける。  びくっとした反応がかえった。 「起きてたのか」 「ああ。遅いな」 「いろいろあってね」  クレーレはアーベルの背中に腕をまわして自分の方へ向かせた。薄い夜着ごしに、黒髪の魔術師はおとなしくクレーレの腕のなかにおさまった。 「悪いな、眠いだろう。先に寝ろよ。俺は今晩はしばらく眠れそうにないから、ほっといていい」 「いや」  アーベルの髪に鼻先を埋めると、煙と焦げた木とかすかに甘ったるい香りがした。酒場の匂いだ。クレーレはそっとたずねる。 「どこへ行っていた?」 「ん? ああ、例の馬蹄だ。騎士団が追ってる違法賭場」 「なんだって?」  思わず魔術師を抱きしめたまま体を起こすと、腕の中で抗議があがる。 「おい、クレーレ――痛いだろう」 「あそこへ行ったのか!」 「ああ、検証にな。テイラーとルベーグと、うちの探知機がほんとにガラクタなのか、確認に」 「――アーベル」 「ん?」  クレーレはアーベルの両肩をつかみ、正面から眸をみつめる。高い窓からさす半月の光をぼんやりうけて、魔術師の表情は平静だった。 「どうしてその前に知らせない」 「仕事じゃないか。おまえだって俺にいってなかっただろう? 事前に騎士団や警備隊の連中に話が流れるのは避けたかったんだ」  アーベルはあっけらかんとした口調で答えた。 「それにおまえのおかげで警備隊がいつも俺の周辺をうろうろしているのは別にかまわんが、今回は内容が内容だし、先方に警戒されたら困る」 「――危険だとどうして考えない」 「危険はなかった」 「アーベル!」 「そしてうちの探知機にも問題はなかった。たしかに違法賭場は存在するし、よくできた遊戯盤だ。ボルトの形が独特だから、やっぱり大陸渡りじゃないか? あれなら貴族のカモはつぎこんでしまうだろうな。ルベーグがビギナーズラックを装って大勝ちしたから、次回は眼をつけられるだろうが。ゲームそのものもなかなか面白いんだが、あの遊戯盤を応用したら何か――」 「……アーベル」  クレーレはため息をつき、魔術師を抱きしめる。 「わかった。わかったが――」 「落ちつけよ」 「落ちついてる」 「どうだか。とにかくな、クレーレ。俺たちが賭場に入れた以上、問題はうちの探知機じゃない。騎士団の方にある」  アーベルのいわんとすることはわかっていた。 「内通者か」  魔術師はクレーレの腕からそっと逃れて敷布に横たわる。 「それも考えられるが、他の可能性もある。騎士団の標準装備品を探知してごまかしているとか、強力な精霊魔術師がめくらましをかけているとか。騎士は魔力が少ないのが多いからひっかかっているのかもしれん。切り分けないとどのみちわからん。担当を入れ替えるなり、何か対策しろ」 「ん――そうだな。だが人事を動かすのは……」 「悩めよ、騎士団長殿」  低い声でアーベルは笑った。うっすら落ちる月の光をうけ、愉快そうに暗色の眸がきらめいた。 「まずいな、眠れそうにない。ひさびさにああいう場所に行くと興奮するな。ほとんど飲んでないんだが、妙に気分がたかぶって……」 「昔はよく行ったのか」 「大陸でね。ああいう場所の防御回路はよく組んだ。金払いもいいしな」 「大陸か」 「野放しの賭場も多いが、評議会で行き過ぎを監視したり、賭場が組合を作って自衛したり、いろいろなケースがある……」  クレーレはまだ話しつづけようとする唇に人差し指をあてた。アーベルは黙り、舌先がちろりとクレーレの指をなめ、もっと深くくわえた。上掛けの下から細い手首が伸び、クレーレの中指まで自分の唇に押しこむ。クレーレのまなざしのもとでまぶたが閉じられると、指をくわえた唇だけがうごめく。  たちまち己の欲望が堅くなってくるのを感じながら、クレーレは魔術師の上に覆いかぶさった。 「アーベル」 「ん?」  くぐもった応答のはずみに唾液が顎をつたっていく。 「最近、食事を一緒にできてない」  アーベルは眼を閉じたまま濡れた指を唇から解放した。 「今日の夕食はここでとったが、おまえはいなかった」 「明日はいる」 「無理するな」 「少なくとも朝はいる」 「そうか? 騎士団長殿は早起きで、どれだけ夜更かししても寝坊などされないからな」  アーベルはからかうようにいいながら薄目をひらき、喉の奥をゆらすような小さな笑いをもらす。半月の光に浮かぶまなざしが欲情に濡れているのをクレーレは見逃さなかった。  魔術師の夜着の下に濡れた指をさしいれ、唇をかさねる。さっきまで指にまとわりついていた舌に舌を絡めながら、指と手のひらで吸いつくような肌をさぐっていく。足を絡めると下着ごしにたがいの怒張が触れあった。  布の下から潤滑油で濡れた指をいれ、ゆっくりと内部をほぐすとアーベルの息は荒くなり、やがて小さな叫びをあげて体をそらせる。空になった瓶が敷布の上に転がった。クレーレが正面から抱きあげるように侵入すると、中は熱くうねり、なじんだ形がしめつけてくる。突き上げるたびに甘い声が耳元におち、下からは濡れた音が響く。  半月が傾きを変え、部屋がさらに濃い闇におちてもまだ、クレーレは魔術師を抱きしめていた。  今年は山地への降雨が少なく、王都の境界に流れる川の水量は減っていた。それでも川沿いを馬で進むクレーレの眼に、新緑をすぎて色を濃くした梢はみずみずしく映った。  王宮で地位を得ることの欠点は外でひとりになれる時間が減ることだ。どこにいるか誰にも知られずにいることはできない。公務と関係ない私的な時間であっても、王城の外に出た時は、距離をとってはいるものの、供の者がついている。今のような、考えをまとめるための乗馬であってもだ。  しかし生まれつきの貴族、それもレムニスケートという王都の防備を至上命題とする一族に生まれたクレーレは、このことを不便と感じたことはなかった。この小さな王国では、重大な地位と任務にはそれに見合った責任と束縛がついてまわる。これは同時に信頼のあかしでもある。  もっともアーベルには、クレーレのこんな態度は理解の外かもしれなかった。王国への忠誠はクレーレを形づくる基盤のひとつで、岩のように堅固でゆるぎない。しかし回路魔術の創始者の子孫で、大陸で長く放浪生活を送っていたアーベルにとっては、忠誠とは国や血筋に捧げるものではない。  しかし一方でアーベルは、クレーレが王国で担っている役割はよく理解している。だからこそ違法賭場の件でも、師団の塔への騎士団の依頼に自分が関わっているなどと、クレーレにあらかじめ知らせなかったのだ。クレーレとアーベルの関係は王宮では何年も前から公認されていた(なにしろ国王本人が認めているのだ)が、だからこそ公私をむやみに混同するわけにはいかない。  それに最近、王宮がクレーレの進言に従って師団の塔を以前より重用するようになったことで、王家の政策顧問である精霊魔術師とレムニスケート家の間に微妙なニュアンスが入りつつあった。もっともクレーレにいわせれば、師団の塔を重視するのはアーベルが伴侶であることとは関係がなかった。それに気づいたきっかけがアーベルだったとしてもである。  それにしても今回の違法賭場の件はやっかいだった。  アーベルから一足先に話を聞いていたおかげで、師団の塔から騎士団へあがってきた報告にクレーレは対応する準備が速くできていた。クレーレの理解では、そもそも違法の賭博を根絶することは元よりできないので、問題になるたびに徹底して対応し、王都はこれを許容しないのだと見せつけていくしかない。  それに、庶民が賭博に身を持ち崩すのはむろん問題だが、今回の賭場はターゲットにされているのが貴族や裕福なギルド員で、ここから別の問題が派生するのではないかとクレーレは恐れていた。多額の債務はひとを簡単に変えてしまう。防備や王国の秘密に関与する貴族がこの罠にはまったら、何が起きるか。できるだけ早急に現場を押さえたいのに、騎士団そのものに問題があるとなると……。  考え事があるとき、川を眺めるのは悪くなかった。だからここまでやってきたのだ。川の水量はいくらか減っても、水は空をうつして青く、ゆったりと流れている。間隔をおいてすこし深い淵もあり、魚がたまに飛び跳ねた。  このあたりでは網をかけての魚獲りは認められていない。しかし釣り糸を垂れる分には問題なく、ところどころの土手には竿を持った人が彫像のように立っている。風景の一部のようなもので、ふだんは特に眼をひくこともない。  だが今日はちがった。真っ赤な髪の大男が岸辺に立ち、じっと水面を見ている姿がクレーレを引き寄せたのだった。商人のような服装で、髪を変わった形に結んで頭頂にまとめている。この国の人間ではなさそうだ。騎士団でいちばんの巨躯を誇るデサルグほどではないにしても堂々たる体格で、さりげなく立つ姿勢にはまったく油断がみえない。たとえ商人のような服装をしていても、クレーレの眼にはあきらかに戦士だった。  クレーレは馬をとめた。赤い髪の男は背を向けたまま動かない。水面はしずかだった。ゆったりと襞をとった布のように流れている。 「いい天気だな。釣りをするのか?」  男はそのまま動かない。クレーレは馬から降りた。手綱を引きながら土手へと進む。赤い髪の男はしずかにクレーレに視線をやり、また川面に戻した。 「興味はある」  声はクレーレよりさらに低く、語尾には聞きなれない抑揚があった。 「どこから来た?」  クレーレは男の横に並んだ。男はクレーレの身なりに視線を走らせた。暖かい気候にもかかわらず、襟もとに巻きつけられた毛皮がふいに動いた。耳がぴんとたち、まるい眼がクレーレをまっすぐにみつめる。クレーレは動揺を押し殺した。愛玩動物を連れ歩くような男にはまったく見えない。 「騎士か」と男はつぶやくようにいった。  質問ではなく、勝手に納得している素振りだった。続けて隣国の港の名前を告げ「十日前に船でついた」と短く切り上げるような口調でいった。クレーレに対する興味はすぐに失ったようだった。すこし離れた向かいの川岸で釣り糸を垂れている老人に眼をやった。  ふたりともしばらく黙っていた。沈黙のなかで、水の音と、クレーレの手綱の先にいる馬の気配だけがきわだつ。馬はふんふんと匂いをかいでいて、それはどうも、男の首に巻きついている動物のせいらしかった。 「釣りはよくするのか?」クレーレはまたたずねた。 「あいにくなかなか実現しない」 「王都へは仕事で?」 「知人の護衛だ」 「そうだろうな」 「この国では暇らしいが」 「だから釣りを?」 「そうだな。やってみたい」  男の雰囲気は驚くほど静かで波立ちがなかった。クレーレに対して何の気負いも感じない。服装や身ごなし、身にまとう雰囲気のおかげで、素性を知らない相手でも一歩引かれたり、場合によっては挑発されることに慣れているクレーレにとってはかなり新鮮な感覚だった。  ふいに馬が鼻を鳴らした。クレーレは我にかえり、手綱をひいた。 「王都にしばらくいるなら試すといい。晴れた日は竿を貸す露店も出る」  赤い髪の男は軽く首を傾けた。会釈したようにも、うなずいたようにも見えた。毛皮のかたまりも耳を立て、クレーレを凝視している。ひとりと一匹に見送られるように、クレーレは馬に乗った。

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