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【番外編】境界の釣り師 4.クレーレ

「どうしてきみんとこの精霊魔術師ってのはあんなに石頭なんだろうね?」 「シャノンのことか?」 「彼は別だよ。可愛いし。動物もなついてる」 「おまえなあ。悪い癖を出すなよ」 「アーベル、きみもおかしなことをいってくれるね。僕は据え膳は拒絶しないが、そんなにがっついてない」 「いってろ」  長身の金髪と黒髪の魔術師が小声で話しながら歩きだす。アーベルはローブを着ておらず、エヴァリストは例によって上から下まで上質な服を着た正体不明のいでたちだ。ふたりを遠目に眺めながら、クレーレは呼吸を整える。  地位があがって困ることがあるとすれば、現場に出たいときに出られないことだ。「大将が出てきちゃ、俺たちはどうすればいいんです? 困りますよ」と気心のしれた友人のデサルグならいうはずだし、実際そのものずばり、鼻の頭に皺を寄せながらはっきり告げられたのだった。 「今回だけだ」 「たしかに気持ちはわからんでもないですよ。ただその……師団の塔はアーベルさんを出さないってことはできないんですか? そうすればあんたもしゃしゃりでなくていい」 「それについてはいろいろ説明された。結論としては無理だという話だった」  アーベルは回路魔術の大陸記法に精通している。クレーレは本当の意味で理解してはいないのだが、回路魔術には「記法」と呼ばれる言語のような体系があり、この国で発明された回路魔術は大陸に渡ったあと、創始者が発案したものとは異なる、独自の記法を発展させた。  回路魔術を発明したのはこの国出身の人間(アーベルの曾祖父)ではあるが、記法自体は大陸の方が進んでいる側面があるらしく、若い頃から十年大陸で暮らしたアーベルはその専門家なのだった。  そもそも師団の塔でアーベルが取り立てられるきっかけとなったのも、彼が大陸記法を理解していたからだという。アーベルがこの国に戻ってきて何年も経つとはいえ、今回の遊戯盤は大陸で設計されたもので、現場にはアーベルがいないと安心できない、うんぬんかんぬん……という師団の塔の説明を、騎士団としては受け入れざるを得なかった。  回路魔術だろうが精霊魔術だろうが、魔術について騎士団は明るくないし(そもそも騎士になるような人間には魔力に鈍感な輩が多いせいで、自分もそうなのをクレーレは自覚していた)向こうが必要だというものを高圧的に拒絶すると角が立つ。 「まあ、あんたもそこそこ若いですからね。まだ」 「何いってる。同い年だろう」 「並ぶと絶対そうは見られないんですよ」デサルグは巨躯を揺らして笑った。 「四十を超える前に騎士団長になったのはあんたが初めてですから、多少はやんちゃしてもいいんじゃないですか」  クレーレは肩をすくめるだけにした。  作戦は三段構えになっていた。まずエヴァリストと商人が新しい遊戯盤を納品するが、その時点で変装したアーベルが同行する。向こうにどんな仕掛けがあるにせよ、次の賭場へエヴァリストとアーベルが招待されるように持ちかけ、さらにその際、騎士団が突入できるよう手筈を整える。  というわけで、三日前に納品を終えた魔術師たちは今まさに賭場へ出かけたのだった。エヴァリストは直前まで緊張感があるのかないのかわからない飄々とした口調で「骨折り得の丸儲け、というわけにはいかないかな」とつぶやいていた。 「かなり手間がかかりましたね」  デサルグがあくびをする。この男は部下の前以外では、良くも悪くも気が抜けているところがあるが、それが逆に彼の強さにつながっているのをクレーレは知っている。 「とにかくあんたの魔術師に怪我はさせませんから」  まったくだ。またもエヴァリストにアーベルの治療をさせるような事態になったら目も当てられない、というのがクレーレの本音だった。  酒場の扉はきっちりと閉まり、内部の喧騒は外にまったく聞こえてこなかった。窓には内張りがされていて、すき間から糸のような細い光がもれている。  警備隊の馬車は二本離れた路地に止まっていた。中で合図を待っているのはルベーグだ。以前アーベルが拉致された事件のときも、師団の塔が送ってきた人物はルベーグだった。アーベルの同僚で、親しい友人でもある彼は、生来の魔力量が多いのでこういった連絡に向いているらしい。そもそも魔力に鈍感なクレーレは、本当の意味ではこれも理解していないのだが。  数時間、ただ待っているのは忍耐がいる。待つのは不得手ではないとクレーレは思っていたが、アーベルが関わるとそうはいかなかった。酒場の扉は閉まったままだ。賭場は酒場の奥の半地下で開かれているのがわかっている。クレーレの隊は裏路地に待機していた。表と裏、両方から時間差で突入する作戦である。 「来ました」  ついにひっそりと伝令が走って、クレーレはうなずいた。道にドンドン、と扉を叩く音が響く。表にいるデサルグが叩いているのだ。ギイっと音がして扉がひらく。あたりはしんとして静かだった――が、それも一瞬だった。デサルグの太い声が響き、表の部隊が踏みこんで、一気に喧騒が沸き起こる。  部下のひとりが裏口に耳をつけている。クレーレはずっと数をかぞえていた。部下の手があがり、クレーレはうなずく。鍵をこじあけて踏みこんだ内部は静かだったが、これもほんの一時にすぎなかった。  ふいにどこかで叫び声があがった。通路はせまいが、建物の内部は外から見えるよりはるかに広かった。息をきらして駆けあがる男の腕を部下が捕まえ、外に押しやる。クレーレはさらに中へ踏みこみ、地下へ向かう階段をかけおりた。途中で一度曲がって降り、また曲がり角がきて、建物の構造として妙だ、と思った――まさにその時だった。抜き身の短い剣を持った男が切りかかってくる。  逃がすつもりはなかった。剣を持っているのだから単なる賭場の客でもない。数回の切り合いと剣の柄による殴打で男は倒れ、クレーレは足でそいつを後ろに転がすが、そのさなかにも眼の前に剣を持った男があらわれるのに眉をひそめる。何かがおかしいと直感がささやくが、頭の上から振り下ろされる刃を捨ておけない。体が勝手に反応する。  両手で剣を握り、足を踏み出して蹴り、柄で打つ。向かってくる男は恐れを知らず、一撃で倒れるほど弱くもない。いったん引いたとみせかけて強い力で撃ちおろしてくる。クレーレは狭い空間で後ろに跳んで体勢を立て直す。男が倒れると前にすすむ――と、また剣を握った者があらわれた。  変だった。クレーレだけに剣を持つ者が襲いかかっているはずはない。そこそこの広さがあるといってもたかが酒場だ。こんなに次々と剣士を繰り出せるなど、計算が合わない。剣戟の響きのうしろにブーンと耳鳴りのような音が鳴っている。ほかの物音がはっきり聞こえず、視界も狭くなったようだ。まるで少しずつ麻痺させられているかのように。  その時どこからか声が飛んだ。 「クレーレ、これは騎士の徽章を焦点にしためくらましだ! 引け!」  クレーレは後ずさった。ブーツの踵が何かをふみつけてバランスがくずれ、うしろにずるりと落ちそうになる。倒れそうになったところを踏ん張ってもちこたえ、起き上がると眼の前にはまだ剣を持った男がいる。その瞬間腕に鋭い痛みが走って、切られた、と思った。痛みは現実そのもので、痛みに伴って視界がゆがみ、斜めにひび割れていく。  ひび割れた視界のなかで別のものがみえた。クレーレは階段の一番下に立っていた。テーブル形の遊戯盤が並んだ室内はめちゃくちゃな混乱ぶりだ。デサルグの巨体がよろりと立ち上がる。その向こうに顔がひとつみえたが、すぐにみえなくなった。  クレーレはまばたきした。顔。どんな顔だ? 特徴をとらえられない顔だった。何の変哲もない顔、という言葉が頭にうかび、そのとたん顔のイメージは脳裏から完全に消え失せた。髪が長いのか短いのか、男の顔か女の顔か、そんな判断もなくなって、ただ平凡な顔だ、という言葉だけがこだまする。 「クレーレ! !」  聞こえたのはアーベルの声だ。しかしクレーレの体は硬直したように動かなかった。声があがった。 「ジラール!」  突然クレーレの横を影が走りぬけた。影は黒く大きく、あまりにも素早くクレーレの横を駆け抜けていったので、人間というより森の獣のように見えた。それはデサルグを押し倒すようにしてその向こうへ飛びかかった。そのとたんクレーレの麻痺が解けた。何かを防ぐように眼を閉じたとたんにドン、と鈍い大きな音が鳴り、つづいて骨が砕ける音が聞こえた。 「殺すな」  誰かがいった――エヴァリストの声だ。突然判断力を取り戻し、クレーレは眼をあける。デサルグが床にうずくまっていた。その向こうに赤い髪の大男が立っている。王都の境の川べりで会った男だとすぐにわかった。頭頂に結んであった髪が長く背中に垂れていた。まるで荷物をぶらさげているかのように、片手で青白い顔色をした細い顎の男を持ち上げ、もう片手で喉を締めている。  エヴァリストとアーベルが同時に近づいた。クレーレは声を出しそうになった――危ないとか、なんとか――が、何かが押しとどめた。エヴァリストの眼つきのせいかもしれなかった。  エヴァリストが近寄っていくにつれ、細い顎の男はさらに足をばたつかせて抵抗した。アーベルが腕をとった。手に枷を握っているのにクレーレは気づいた。  驚くほど静かだった。拘束された男の喉が鳴る音だけがひゅうひゅうと響き、それ以外は全く何の音もしない。まるで別の空間にいるような、あるいは閉じこめられているかのような感じがした。  カチャリと枷をはめる音が響いた。  そのとたん世界に感覚がよみがえった。ざわざわとした雑踏の響き、床を踏むブーツの踵、低く問い詰める声とすすり泣くような声。 「ジラール、どこで遊んでいたんだ」  とエヴァリストがいった。赤い髪の男に話しかけているのだ。 「肝心な時にしかいないってどうなのさ」 「肝心な時にいるのなら問題ない」  妙な取り合わせのふたり連れをぼうっと見ていると、肩に手がかけられ、クレーレは我にかえった。 「怪我したか? おまえは幻影を見せられていた」  アーベルだった。白い顔にはかすり傷も見当たらず、クレーレは安堵のため息をつく。 「油断した」 「あれは精霊魔術師だから、油断もへったくれもない。騎士が踏みこむタイミングをもっとずらすべきだった。悪い」 「アーベル、あの男も魔術師か?」  クレーレは視線を動かさなかった。しかし誰のことを話しているのかアーベルはすぐ察したようだった。 「ちがうだろう。エヴァリストの連れだ。ただ精霊動物がいるから、それで――」 「精霊動物?」 「首に巻きついてる」  そういえば川で彼を見た時もあの毛皮は巻きついていた、とクレーレは思い返した。もちろん愛玩動物ではないのだろう。しかし―― 「魔術師ではないのにどうして精霊動物を?」  アーベルは首を振った。 「わからん。何にせよ違法賭場は今日で終わりだ。あとはおまえと審判の塔の仕事だ」 「そうだな」  外に出ると警備隊が忙しく働いている。酒場にいた者はひとまず全員王城へ連行され、ひと通り尋問されることになる。いつの間にかルベーグがアーベルのそばに立っている。ふだんはあまり表情が動かない美貌がめずらしく、話を聞きたくてたまらないといった様子にみえた。だがアーベルはそれに気づかない様子で、ぼんやりした眼つきだった。 「大丈夫か?」  クレーレは魔術師の白い顔をのぞきこんだ。 「ああ。クレーレ。この国は……」  アーベルは小さな声でつぶやいた。 「精霊魔術も回路魔術も――細かく規則をつくり、境界で分割し、縛っていくのが得意だ。だがいくら規則を作っても、また誰かが破るぞ。ずっとこうやっていくのか?」  クレーレは答えようとしてためらった。それが当然のことだと断言するのは、少なくとも今は間違っている気がした。アーベルはクレーレを見上げて首を振った。 「悪い。おかしなことをいった」 「いや。戻ろう」  クレーレは顔をめぐらす。赤い髪の男が街路に立っている。クレーレに向かって軽くうなずいた。近づいていくと男の肩にまとわりつく毛皮のかたまりから耳がにょきっと突き出し、黄色い眸がクレーレを睨みつけるように凝視した。しかし赤い髪の男は川べりで出会った時と同様、静かな雰囲気をまとっている。力を行使した現場が目と鼻の先にあるのに、興奮した様子がまったくない。 「魚は釣れたのか」  クレーレがたずねると、赤い髪の男はかすかに首を傾けた。 「これからだ」  男の肩のうえで生き物が足をのばし、立ち上がった。長い尻尾を男の首にまきつけて、もう一度クレーレの方をふりむいたが、すぐに興味を失くしたかのように顔をそらす。 「釣り竿の手配をしようか」  クレーレの言葉に赤い髪の男はまた軽く首を傾けた。 「感謝する」 「いや」  クレーレの首筋にふわりと絹のような感触が触れた。長い尻尾がゆらりと動いて、また男の首に巻きついていく。黄色い眼がもう一度クレーレをみつめ、そっと閉じられた。

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