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【番外編】大鹿の角
鹿の角亭といえば、王都の城下でよく知られた居酒屋兼宿屋だ。非番の警備隊がよく立ち寄ることと、料理が美味いことで昔から知られている。城下の警備隊の給料で行けるくらい、つまり一般庶民にも手が届く値段で、警備隊がたむろしているとあってみるからにいかがわしい連中は近寄らない。だから階上の宿は遠来の商人たちに好まれ、階下の居酒屋は安心して飲み食いを楽しみたい人々で連日にぎわっている。
ところが今日はいつもと様子がちがった。
「それじゃいくぞ! 準備はいいか~」
古参の警備隊員が椅子の上にたちあがり、すべての席が兵士で埋められた店内を睥睨する。
「万全です!」
「問題ありません!」
「まずは我らが王陛下を称えて!」
「乾杯!」
「クレーレ騎士団長の雄姿に!」
「乾杯!」
「我らが王城警備隊に!」
「乾杯!」
「冬祭りを無事に生きのびた俺たちに!」
「乾杯!」
野太い声の合唱のあと、場が急に静かになった。全員がいっせいにエールを飲み干したからだ。
「ぷはぁ……うめぇ! おかわり!」
「アーベルさん、二杯目は?」
隣に座った若い隊員に杯をつつかれて、俺は首をふる。
「大丈夫だ。まだある」
「今日の支払いは騎士団長なんで、遠慮せず!」
「こら、アーベルさんにそんなこというなって」
俺の向かいの古参にしかめっつらでたしなめられ、若い隊員はしまったという表情になる。俺は笑ってそいつの方向へ杯をあげた。
「気にするな。飲め」
「ありがとうございます! アーベルさんにも乾杯!」
「乾杯!」
「クレーレ騎士団長にもういちど乾杯!」
「乾杯!」
警備隊の連中は全員声がでかい。そんなやつらが居酒屋を占拠して飲みはじめたら、うるさいなんてものじゃすまない。乾杯直後の一瞬の静けさは夢だったかと思えるほど、蜂の巣をつついたような大騒ぎがそこかしこではじまっている。
しかしこれも無理のないことだった。なにしろ冬至にはじまる王都の冬祭り――数日にわたる大騒ぎが先週やっと終わったのである。しかも今年は十二年に一度の冬の大祭ということで、王城でも例年の儀式や夜会に加えて特別な余興が行われた。これを見物しようと地方や隣国からはるばるやってくる者もいたから、王都の人口は一時的にふくれあがった。警備隊の苦労は推して知るべしである。
冬の大祭は俺にとってもはじめての経験だった。前回の大祭のとき、俺はまだ大陸にいたのだ。つまり俺が王都へ戻ってからもうすぐ十二年経つことになる。クレーレと出会ってから十二年になるということだ。やれやれ、もうそんなに経ったのか。
杯を空にして卓に置いたとたん、向かいから「はいっ」と新しいエールが差し出された。城下の警備隊には俺の顔なじみが多い。俺とクレーレの関係は王陛下公認で、つまり同性の伴侶として騎士団や警備隊連中に知られているし、伯父から相続した町屋敷(今は俺の私的な研究室となっている)はクレーレの肝入りで警備されているからだ。
知りあった頃は警備隊隊長にすぎなかったクレーレだが、出世していまや騎士団長という地位にある。それでも警備隊の古参から顔しか知らないレベルの若手まで人気があった。どうも彼は若い連中にとって一種のあこがれの対象らしい。
俺はそんなクレーレの横をふらふらしているただの魔術師、白でも灰でもない暗色のローブを着た回路魔術師にすぎないのだが、貴族出身の騎士連中はさておいて、平民出が多い警備隊の隊員はなぜか俺のことも尊重してくれる。今日の打ち上げに呼ばれたのもその流れだ。
「それにしても今回の祭り、騎士団長がついにアレに出るとは……」
すでに酔いが回っているらしい隊員のひとりが顔を真っ赤にしながらいった。
「いやあ、さすが団長だよ。よかった。実にかっこよかった!」
「アーベルさんは見ましたよね? 俺は見られなかったんですよ」
卓の横から話を聞きつけた隊員がにゅっと首をつきだした。
「騎士団長の余興……冬祭りの芝居!」
不満そうな隊員に俺は思わず笑った。
「見たよ。見たっつーか、俺は特殊効果担当だった」
「ああ、回路魔術で! 冬の悪鬼が登場するところ、凄かったって聞きましたよ。色つきの煙と光がわーっとあがって、地鳴りみたいな音がしたとかで」
「まあな」
隊員がいう「冬祭りの芝居」とは、十二年に一度の大祭の時のみ王族が上演する特別な寸劇のことだ。古い伝承を元にした筋書きで、簡単にいえば十二年に一度王都に戻ってくる悪鬼を成敗する話である。
今回は現王陛下が即位してはじめての大祭ということもあり、この寸劇を祭りの余興としていつもより大々的に執り行うことになった。おかげで例年なら祭りのあいだは休暇になるはずの俺たちも駆り出され、大騒ぎに加わった。
俺の同僚のテイラーは寸劇の脚本を書いていたし、俺は俺で「派手にしろ」というエミネイターの命令のもと、無害な光や煙をまき散らす回路を設計し、当日まであれこれやっていた。俺の弟子のコリンもルベーグの弟子のルカとともに脇役として出演するはめになったが、これもエミネイターの采配である。
寸劇の話になったせいか、隣の卓の隊員も杯を片手に俺の方へ身を乗り出してくる。
「団長はほら、あの兜をかぶったんでしょう? 大鹿の角の」
「ああ。変な恰好だったぜ」思い出したとたん俺は吹き出しそうになった。
「そんなこといっちゃいけません。十二年に一度、あれをかぶって冬の悪鬼を退治できるのは騎士団長だけなんですから」
「そうらしいな」
この芝居では騎士団長が王の命令のもと悪鬼を打ち倒すのも昔からのならわしという。その時身につけるのが大鹿の兜である。やたらとでかい鹿の角が張り出して、実用性からはほど遠いが、異様な見てくれは脅しにはなるだろう。俺はにやにやと思い出し笑いをうかべ、もう一杯エールをもらおうと手をあげた。その時だった。
「騎士団長です! 騎士団長のおなりです!」
ひっくり返った高い声が響く。あたりが一瞬しんとして、次に盛大な拍手がわきおこった。
通路を塞いでいた隊員がさっと脇によけ、出入り口から一直線の道がひらく。クレーレが店内に足を踏み入れた途端、隊員どもはいっせいに足を踏み鳴らし、手拍子がはじまった。
「騎士団長!騎士団長!」
俺はあっけにとられてその様子を見守ったが、クレーレは驚いた様子もなく店内をみまわし、悠然と手をふった。とたんにその場は静かになった。
「諸君、冬祭りのあいだはご苦労だった。城下では大きな事件もなく、諸君のおかげで無事に切り抜けることができた。感謝する。今日は好きなだけやってくれ」
わーっと声があがり、拍手がおこり、足踏みがはじまった。クレーレはまた手を振り――そして俺の方向へ視線を向けた。俺は思わず首をひっこめたくなった。実はクレーレの顔をまともに見るのは三日ぶりなのだ。俺は公認の伴侶としていつもは騎士団長の屋敷で暮らしているのに、冬祭りのあいだはおたがいそれぞれの行事や仕事が詰まってすれ違いばかりだった。冬至に王宮でひらかれた夜会ですらほとんど会話をしていない。
「おまえ、アーベルさんの横をあけろ。団長、こちらです」
俺の両側にいた若い隊員がささっと席を立つ。卓の上の空の杯があっという間になくなって、料理の大皿が運ばれてきた。クレーレは平然とした顔で俺の隣に座った。
「騎士団長、久しぶりにお目にかかります! エールでよろしいでしょうか!」
「ああ、エールをもらおう。元気そうだな」
「ありがとうございます!」
俺は横目でその様子をみながら、せっかくだからと料理の皿に手を伸ばす。クレーレは運ばれてきたエールの杯をあげた。
「警備隊に」
「警備隊に乾杯!」
城下の若い警備隊員の多くは平民出身だ。クレーレのような貴族の騎士団長は雲の上の存在だろう。乾杯のあと俺の周囲はすこし静かになった。俺はひそひそと囁いた。
「おい、どうしてここに? 今夜も王宮で用事があったんじゃないのか」
たしか貴族の集まりがあったはずだ。だから俺は黙ってこの打ち上げに来たのである。
クレーレは平然とエールを飲み干した。
「もう終わった」
「なんで俺がここにいるとわかった?」
「デサルグに聞いた」クレーレはにやっと笑った。
「警備隊の打ち上げには俺もずっと顔を出していなかったから、おまえを迎えにいくついでに一杯飲むのも悪くないと思ってな」
迎え? 俺は呆れはて、思わずぼやいた。
「おまえ、過保護すぎないか?」
「五年前の冬至の夜会はどうだ。三年前も――」
「あーわかったわかった! それ以上いうな!」
俺は観念してエールの杯をあげる。五年前の冬祭りのとき、俺は冬至の夜会に行く途中、俺のじいさんのファンだという画家に拉致されて面倒くさい羽目に陥ったことがある。三年前は回路魔術師を狙う強盗団が王都にあらわれてひと騒動あった。俺はその事件のとき弟子のコリンを拾った。
「それはそうと、例の芝居はおまえも大変だったな! あの兜」
ごまかすように早口で続けるとクレーレは顔をしかめた。
「兜か。たしかにあれは試練だった」
「芝居とはいえよくあれでチャンバラができたぜ」
「ああ。重すぎるし視界が悪すぎる。次回までに師団の塔で改良できないか」
「次回? 十二年後もやるつもりか? それにあの兜は王のものだろう。伝統の品を改良なんかしていいのか?」
「王はむしろ喜ぶ。今回の回路魔術もお喜びだった。もう少し顔を見せてほしいとおっしゃられたぞ、魔術師アーベル。もっと俺の隣に立たせろとな」
おっと、こう来たか。
俺はハハハ…と力なく笑った。
「まあ、それはな……照れるんだ」
「俺の伴侶」
囁く声とともに肩に腕がまわり、抱き寄せられる。俺は周りの連中がさりげなく目をそらしているのを視野の端で確認する。まったく、昔からこの男は照れというものを知らない。
クレーレは杯をのぞきこみ、俺のエールの残りを測った。
「アーベル、そいつを飲んだら行くぞ」
「もう?」
「俺がいたら他の連中が羽目を外せないだろう」
じゃあ俺はどうなんだ、といいたくなったが、反論が無意味なのはわかっていた。じき十二年になるつきあいの成果だ。
立ち上がって鹿の角亭を出るとき、今度は俺も拍手と共に送り出された。これだからクレーレといると恥ずかしいのである。王都の冬はほとんど雪が降らないが、風は冷たく乾燥して、吐く息が白く凍る。俺は静かな街路を見渡した。空になった屋台や飾り物の残骸など、祭りの名残はまだすこし残っているものの、鹿の角亭以外の店は閉まっている。
「クレーレ、俺の町屋敷へ行こう」
「ああ、かまわないが……」
「地上が暗くなったから今日は星がよく見える」
俺はもう歩きだしていた。町屋敷の最上階には空を観測するための部屋がある。俺が子供のころ寝起きしていた部屋だ。
階下で年中稼働させている実験施設のおかげでこの町屋敷は冬でも暖かい。きゅうくつな狭い階段を上る俺のあとをクレーレは用心深い足取りでついてくる。俺は回路魔術の明かりで足元だけがぼんやり照らされた床にたつ。上をふりあおぐと丸屋根のむこうに星空が広がっている。
クレーレの腕が後ろから俺の肩を抱き、ざらざらした髭が俺の首筋にあたった。
「星に見られるのはいいのか、アーベル」
「遠いからな」
ほとんど表情がみえなくとも、吐息が顔にあたって、クレーレが笑ったのがわかった。そのまま床に寝そべって、俺たちは口づけをかわす。
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