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【番外編】絆をつくる-出会った頃のこと
本編のパート1「馬とピザと」1話の直後のミニエピソード。同人誌書き下ろしの再録です。
*
アカシアの葉がおそい午後の光をうけている。夏の熱暑はとうに過ぎ去ったが、昼間の日差しはまだすこしきつい。そのかわり夕刻はとても過ごしやすくなった。
俺は工房の扉をあけはなち、アカシアの影を眺めている。師団の塔の作業から解放されるのはいいものだ。今の俺の担当は退屈な負荷試験がほとんどで、難しくはないが面白くもない。だから週末は塔の宿舎を抜け出して、伯父の町屋敷でだらだらと過ごす。
だらだらといっても日中はだいたい手を動かしている。伯父の屋敷は閉ざされているが、俺が寝泊まりする納屋は工房に改造されていて、いろいろな思いつきをすぐに試せる。近頃の俺は大陸で考案した回路をさらに洗練させたり、別のものに応用したりで休日をつぶしていた。
大陸ではこんなふうに「休日」を実感することなどなかった。そのせいかときに俺は妙な気持ちに襲われる。大陸では一ヵ所に長くとどまることもなかった。短い期間なら組織に雇われることもあったが、依頼を片づけたらその土地を離れて、また別の場所へ行くのが常だった。
定住に必要なだけの財産がなかったからではない。エヴァリストと組んでいたのもあって、大陸ですごした十年のあいだに俺はたんまり稼いでいた。王国へ戻ったあとも当分働かずにいることだってできたくらいだ。
そうしなかったのは――今も扉を閉ざしたままの伯父の屋敷のせいだ。
「おおい、あんた」
門のところで声があがる。俺は首をのばして相手をたしかめ、立ち上がった。
「なんだ?」
「今日の売れ残りだ。いらんかね」
荷車の横に立っているのは夏にここへ大量のピザを届けたパン屋だ。伯母が生前、俺の誕生日にあわせて注文していたもので、俺はまったく知らなかったからひと悶着あった。彼に表通りでばったり再会したのは夏の終わりのことだ。配達に使う容器の回路に不具合が出たといって立ち往生していたので、いささか気まずかったが俺は修理に手を貸した。それ以来、週末になるとここへ寄ってくれる。
王都で食べ物の配達業が賑わっているのは回路魔術のおかげだ。夏の暑さも冬の寒さもものともせず、作りたての温度が保て、長くもつ。逆にいえば回路に不良があると商売があがったりとなる。
俺は容器に鎮座するパイ皿を眺めた。皿も食べ物も宴会用の飾り付きだ。
「ずいぶん豪勢な売れ残りだな」
「とあるお屋敷に注文を反故にされてね」
「どこかで聞いたような話じゃないか。いくらだ?」
「値引きしとくよ。あんたはケチじゃないからな」
「そりゃありがたい。でも全部は食いきれない。半分くれ」
銀貨と引き換えに手に入れたパイは容器のおかげでまだ熱い。この国へ戻ってよかったことをひとつあげるなら、暮らしがなにかと楽だという点だ。大陸では簡単に荒野へほうりだされるので――まあ、それは俺がそういう生活をしていたから、というのもあるが――何もかも自分でせざるを得なかった。でもここでは面倒なことを人に頼める。食べ物ひとつとっても、こうして売りに来てくれる。生来の面倒くさがりとしてはありがたいかぎりだ。
そろそろ日が陰ってきた。
俺は工房の外のテーブルにパイの皿を置いた。
クレーレは今日、来るだろうか。
週末のたびに顔をあわせる男の顔を思い浮かべる。警備隊の小隊長を務める騎士だ。彼にはじめて会ったのは夏のさかり、さっきのパン屋と揉めている最中のことだった。
あの時はピザを始末するために、近くの家や警備隊にまでおごることになってしまった。クレーレはそのあと礼をいいにここへきて――で、なぜかその後も、週末になるとあらわれるのだった。パトロールのためにではなく、俺と飲むために。
それが数回つづくうちに、俺も彼を待つようになっている。
約束をしたわけでもないのに。
俺はワインを注いだ。夕闇が迫ってくる。ランプの明かりを調節しているとひづめの音がきこえた。
「おう」俺は片手をあげる。「来たな」
アカシアの葉のあいだから長身が姿をあらわした。
「アーベル」
「今日はいいものがあるぜ」俺はテーブルに顎をふる。
「どこかのお屋敷で宴会が中止になったらしい」
クレーレの視線は俺とテーブルのあいだを交互に動いた。
「ああ、織物ギルドだろう。会合が中止になったはずだ」
こんな話がきけるのは警備隊ならではだ。俺は眉をあげてからかうようにいう。
「なんだ、おまえの管轄か。揉め事でもあったのか?」
「昼間のことだ。仲裁に入った」
クレーレは酒の瓶をテーブルに置いた。
「またいいものを持ってきたな」
「そうでもない」
城下には騎士団御用達の酒屋でもあるのだろうか。クレーレがもってくる酒に外れはない。俺は飲みかけのワインを干し、新しい酒を注ぐ。グラスはふたつだ。
「座れよ。食おう」
長身の騎士の口元が緩んだ。精悍な顔に浮かぶささいな隙が自分の心の襞を揺らすのを、俺は無視する。この男がここにいると、背中の暗闇にうずくまっている屋敷の圧力が、すこし楽になるような気がする。
どうしてなのかわからない。クレーレがここにいるだけで、ひどく落ちつく。
「あ、たいちょーさんのお馬だ。すごい」
「シーッ」
門の前で子供の声が響いて、すぐにいなくなった。
「人気者だな」と俺は笑う。「あんな子供にまで隊長と呼ばれているのか?」
クレーレの頬がほんの一瞬紅くなった。
「部下のせいだ」
「いいじゃないか。たいちょーさん」
俺は笑いながらクレーレにグラスを押しつける。騎士のながい指が俺の手に触れ、あわてたように離れた。
*
その屋敷の門の横には大きなアカシアの木がある。今日もながく伸びた枝先の葉が門扉にかぶさって揺れている。家主いわく、伸びすぎたから刈ってみたもののうまくいかなかったらしい。
馬をつないでいるとその家主本人が庭の隅から呼んだ。
「クレーレ」
クレーレは手土産を片手に歩いていく。納屋のような建物の前でローブを羽織った黒髪の男が手をふる。夕闇に浮かぶ顔をみるとクレーレの心は明るくなる。自分のなかで眠りこけていた部分が急に目覚めたように、はっとする。
「アーベル」
黒髪の男は回路魔術師のしるしである暗色のローブをまとっていた。その足がさっと動き、裾が鳥の翼のように広がって、元に戻った。
すこし前には暑苦しくみえたローブだが、涼しい風が吹くようになった今ごろは、夕闇にとけこんで魔術師の白い顔を際立たせている。
「入れよ。――っと、いい匂いだ」
「表通りで買ってきた」
クレーレは魔術師の工房に足を踏み入れた。ここにはけっこうな広さの町屋敷が建っている。アーベルはこの屋敷を最近相続したというが、なぜか家の中に住もうとせず、敷地内に建つ納屋のような工房で暮らしている。暮らすといっても毎日ここで眠っているわけではないらしい。アーベルがここにいるのは週末だけだ。
クレーレが彼に出会ったのは夏の盛りだった。とあるきっかけでピザをふるまわれてから、この区画を巡回するたび、クレーレは無意識にアーベルを探していた。やがて、週末の夕暮れ時にはいつもここにいるとわかった。
それからはこうして手土産をもって訪ねている。最初にふるまわれたピザの礼、というつもりもなかった。わずかな時間でいいからこの魔術師とともに過ごしたかっただけだ。
「うまそうだ。いくら払った? 俺も出す」
香ばしく焼かれた肉の串をまえにアーベルが銀貨を取り出そうとする。クレーレはあわてて首をふる。
「いや、いいんだ」
「まったく、ピザの件は貸しじゃないぜ」
アーベルに呆れた声でそういわれてもクレーレは譲らなかった。魔術師は肩をすくめ、酒をふたつのグラスに注ぐ。クレーレは戸口近くに置かれた椅子に座って、工房の中をみるともなく眺める。
何に使うのかわからない道具が四方の棚にならび、クレーレには意味不明の記号が書かれた紙があちこちに散らばっている。隅の小さな寝台がアーベルが眠るところだ。けっして広いとはいえない空間に自分がいると、さらに狭苦しく感じられるかもしれない――以前もそう思ったのだが、アーベルが嫌がるそぶりをみせたことはない。
「こっちの串焼きはこんな味なのか。なるほど」
アーベルは肉をほおばったまま不明瞭な声を出す。
「どうちがう?」
アーベルは肉をごくりと飲み下した。クレーレは喉ぼとけが下がるのを何気なくみつめた。そのとたん体の奥にざわざわと蠢くものを感じてハッとする。
「すごく柔らかい。あっちの方が肉は全体に堅いんだ。香料もあっちの方がきつい。そうそう、こっちじゃどうか知らないが、肉を焼く炉の回路があって……」
アーベルは酒を片手に話しはじめる。彼と知りあうまで、クレーレは回路魔術師とまともに話したことがなかった。特に偏見をもっていたつもりはないが、いったい何をしているのかわからない職業だと、何となく思いこんでいた。
しかしアーベルは回路魔術に誇りを持っている。クレーレが騎士という自分の立場や警備隊の職務を誇りに思っているのと同じように。アーベルは回路魔術の役割や、それを作り出す自分の力を信じているのだ。
この魔術師はクレーレと変わらない齢のくせに、大陸で十年も暮らしていたという。そのせいか、話し方も、物事の捉え方も、クレーレには新鮮で面白かった。
それに自分がアーベルを見ていたいと思うのは、この理由だけではない。
――いや。そんなことを考えるのは、まだ早すぎる。
酒を飲んだアーベルの頬が上気するのをみつめながら、クレーレはひそかに自分の中であらそう。週末のこのひとときは何の約束もなくはじまったものだった。アーベルに対して感じているものを言葉にしてしまうのは、まだきっと早い。
「大陸は広い。どこで暮らしていたんだ」
「あちこちさ。回路魔術師はなんでも屋なんだ。一カ所にいない方が仕事にあぶれない。そうそう、食い物も大河を渡るとけっこう変わる。肉の種類も、味も」
アーベルは落ちてきた前髪をかきあげた。ランプの明かりに照らされ、まぶたの下にうすい隈が浮かんでいる。と思うとクレーレから視線がそれた。ながい睫毛がすっともちあがり、今度は上目づかいでクレーレをみつめる。
「そろそろ髪を切った方がいいらしい」
クレーレは思わず唾をのみこんだ。自分の体の奥に火が灯ったのがわかった。
「そうか? 今のままでいいだろう」
表面だけ平静さを保ってそう返すと、魔術師はわざとらしくクレーレをにらんだ。
「おやおや、騎士さん。そんな短髪でよくいったもんだ」
ふざけた口調と同時にアーベルの腕がのびる。しかしクレーレは反射的にその手を掴んでいた。
「いいじゃないか。髪くらい触らせろよ」
アーベルは不満そうに口をとがらせる。それをみたとたん、クレーレの体の奥の火がひとまわり大きくなる。
「切らなくていい」
クレーレは言葉に迷った挙句、ぶっきらぼうにいってしまう。
「今の方が似合う」
*
今日は朝から雨が降っていた。
夏の嵐ともちがう、細くしとしと降る暗い雨だ。空には雲が重く垂れこめ、気温がぐっと下がるのを感じて、俺はようやく思い出した。王国では秋になるとこんな雨がときどき降る。そのたびに寒くなって、冬に近づいていくのだ。
俺は窓を閉めると工房の中を片づけはじめた。整理整頓ほど苦手なものはないが、回路魔術の材料や道具は天候の変化に影響を受ける。今日のように雨が降っていると進められない作業もあるから、こんな時くらい片づけを――と思ったのだが、やはり苦手なものは苦手である。
結局中途半端なところであきらめて、俺はテーブルの上に紙を広げた。今日のような日は頭の中にくすぶっている考えを出しておくにかぎる。週末とはいえ、こんな雨が降っていてはクレーレも来ないだろう。
ペンをとるとずっと頭の中だけで温めていた回路の設計図を描きはじめる。王都へついて間もないころに思いついたものだ。
俺はわき目もふらず線を描いた。描けば描くほどこの回路がうまくいくという確信が湧き、楽しくなってくる。屋根をうつ雨の音も気にならない。師団の塔の仕事では得られない感触だ。世界は紙と俺と回路の渦だけになる――
と思った時、ドンドンと戸口を叩く音が響いて、俺の集中は途切れた。
「なんだ、こんな日に――」
俺はぼやきながら扉をあけ、固まった。
「クレーレ。こんな日に」
油紙の合羽をもちあげて、騎士は困ったように眉をひそめた。
「ああ……邪魔したか。悪かった」
「いや、大丈夫だ」
きびすを返そうとした騎士を俺はあわてて引き留める。
「入れよ。歩きか?」
クレーレは戸口で雨合羽を脱いだ。壁の釘へひっかけろというと素直に従ったが、向きなおった騎士服の袖には黒い帯がついている。
「クレーレ、その忌章は?」
「部下の親御さんが急死した。弔問の帰りに寄るのもどうかと思ったが」クレーレは一瞬言葉を切った。「アーベルの顔が見たかった」
俺はどんな表情をしていたのだろう。クレーレの眉が訝しそうにあがったので、あわてていつもの椅子をさす。
「それは大変だな。座れよ」
何度もここで飲み食いしているのに、俺はクレーレに正式な身分を聞いたことがない。少なくとも下級貴族だろうとは思っていたが、貴族というのは平民の部下に不幸があったからといって、弔問にまでは行かないものだ――俺が知るかぎり。
クレーレは疲れているようにみえた。俺は描きかけの図面を邪魔にならない場所へ押しやり、ワインを探した。
「飲むだろう?」
「ああ」
「残念ながら今日はパンとソーセージしかない」
酒をもって振り返るとクレーレはじっと俺をみていた。まっすぐなまなざしになぜか俺はどぎまぎして、肩をすくめる。
「あいにくどっちも干からびてる。悪いな」
「まさか。俺には十分だ」
雨が工房の屋根を叩く音が響く。俺は酒を注いだグラスをクレーレに差し出した。指先が一瞬からまって、それから離れた。
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