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【番外編】空にあらわれる傷 1
本編のエピローグ終了後、アーベルとクレーレが大陸旅行をしているときのエピソード、全4回。紙本書きおろし短編の再録です。
*
空は灰色の雲に覆われていた。翼をひろげた海鳥が港の上空を旋回している。
陸に降りたとたん記憶にある匂いが鼻についた。土やタールや、いろいろなものが混じった匂い。俺がこの土地にいたころは毎日馴染んでいた匂いだ。大陸はとてつもなく広いのだが、この奇妙な匂いはどこへ行ってもつきまとう。
「やあ、アーベル。ひさしぶりの船はどうだった」
二頭だての馬車の前でエヴァリストが待っていた。例によって金のかかった派手な身なりだが、この男にとってはこれが自然な恰好なのだ。この土地で最初に出会った時からそうだった。
「問題なしだ」と俺は答える。
「船酔いは? レムニスケート殿は大丈夫だったかい」
俺のすぐうしろでブーツの踵が鳴り、クレーレが落ちついた声でいった。
「ああ。問題なしだ」
実はまったく問題がなかったわけではない――特に船旅の最初は。しかしクレーレは弱音を吐かず、いつのまにか海に慣れてしまった。暇な船旅のあいだ、俺だけでなく船員を相手にこっちの言葉も練習していたくらいである。
「もろもろの手配はしておいた。夜は評議員のところへ案内するが、その前に宿へ行こう。僕の常宿だ」
御者が俺とクレーレに目礼をし、馬車の扉をあける。エヴァリストは軽快な足取りで乗り込み、俺とクレーレもあとに続いた。
エヴァリストの派手な格好、この馬車、俺たちを、周囲のすべての目がしっかり見ているだろう。エヴァリストの方も、俺たちがはるばるやってきた公式使節だと周囲に事前情報を流しているはずだ。
船が到着したここは、大陸のなかでもいちばん発展している北東部である。三角州を見下ろす都市は八家から選ばれた評議会に統治されている。俺とクレーレはこの都市にはじまって、大陸の主要な貿易拠点をめぐることになっていた。たいていは俺も訪れたことがある場所だ。
単なる遊覧旅行ならエヴァリストの手を借りる必要はなかった。しかしこの男は大陸に林立するさまざまな政体の重要人物に顔がきく。馬車は鈴を鳴らしながら坂をのぼり、白亜の建物の前で止まった。
まったく、これが常宿か。
「前より金遣いが荒くなったな?」
思わずそうつぶやくとエヴァリストはニヤニヤ笑って「僕は適正価格を知っているんでね」とうそぶいた。
「アーベルは堅苦しく考えすぎなんだ、昔から」
「昔から? あんたが緩すぎるんだよ」
思わず喧嘩腰でそういったとたん、俺の右肩が重くなった。
「アーベル」
ふりむくとクレーレが無表情で降りろとうながしている。俺は理由もなく恥ずかしくなり、あわてて馬車を飛び降りた。
「快適さは金で買えるとは限らない。だから買えるうちに買っておけ」これは大陸のあちこちで聞く旅人への訓示だが、地域によって意味する内容がちがっている。文字通りに受けとっていいのは人口がまばらな北の土地だけ――しかもこのあたりでは金がなくてもなんとかなる――で、大陸いち栄えているこのあたりでは「快適さに金を出さなければあとで痛い目をみる」や「理由もなく手助けする者に気をつけろ」とほぼ同義の警句になる。
要するに、金を受け取らずにちょっとした親切をしてやるとみせかけて、身ぐるみはごうとする詐欺師があちこちにいる、ということだ。だからエヴァリストがケチケチせずに豪勢な宿を押さえたのは、単にあいつの好みの反映だとしても悪いことではなかった。それに内陸の奥地に行けばこんな宿にはまずお目にかかれない。
「いい部屋だ」
クレーレはアーチを組み合わせた高い天井をしげしげと眺めている。白い壁は浮き出し模様で飾られ、浴室の湯は回路魔術で制御されていた。バルコニーの下は緑の庭園で、曇り空のした瑠璃色に輝く飾り羽を広げた鳥がゆったり歩いている。
「そうだろう? 僕の選択はいつも正しいのさ。三角州のここでは特にハッタリが大事だ。着いた早々疲れているだろうが、今晩はアーベルも一国の使節らしく着飾ってくれ。八家のお偉方が集まる日に間に合ってよかったよ」
エヴァリストが何を期待しているのかはわかっていたので、俺はしかめっ面でこたえた。
「用意するから行けよ。あんたの部屋は?」
「向かいだ。時間になったら来る」
船旅のあいだはろくに体を洗えなかったので、俺たちは交代で湯をつかってさっぱりした。クレーレは騎士服、俺は銀糸で飾られた正装とそろいのローブに着替える。王国の夜会のためにエミネイターが俺にあつらえさせたものだ。クレーレが鏡に向かって大陸の言語でぶつぶつと挨拶をくりかえしたので、俺は彼の背中に手を触れる。
「大丈夫だ。わからない時は俺が通訳する。エヴァリストもいるしな」
王国の貴族の多くは大陸の言語を教わっているが、どのくらい話せるかは人による。クレーレはちょっとした会話にはべつに困らない。しかしこの都市を牛耳る八家の統領に対面するとなれば、緊張するのは仕方ないことだ。
八家の統領たちにエヴァリストが伝手を持っているのは、俺と組んでいたころに回路魔術の注文を受けたことがあるからだ。でも交渉事をエヴァリストに任せていた俺は一度も注文主に対面しなかった。
それなのにエヴァリストの伝手を勝手に利用したことはある。最後に三角州を訪れたとき――つまり王国へ戻る直前のことだ。急いで戻らなければならないのにどの船も満員だというから、金と偽の権威とハッタリをちらつかせたのだ。あの時は多少脅迫まがいのこともやった。この土地にはどうも、人間の荒っぽい側面をひっぱりだすところがある。たとえ武器を使わなくても。
しかしその夜の晩餐会は、物騒な気配などかけらも感じられない和やかなものだった。八家の統領はみな妻か夫を伴っていたが、そのうちの一人――紫色の眸が印象的な女性は俺と同じ、暗色のローブを羽織っていた。どういうわけか回路魔術師のローブはどの土地へ行っても似たり寄ったりである。
「ルチアと申します、アーベル様、お会いできて光栄です。ずっとお名前は存じておりました」
俺は驚いて相手を見返した。
「いったいどこで?」
「夫の依頼にこたえてイラト家の防壁を強化してくださったでしょう。拝見させていただいたのです。その時は正直に申し上げて、腹が立ちました。わたくしには歯が立たない……独自設計の回路でした。あとになって、エヴァリストさまがおひとりでいらっしゃったときにあなたの作だといわれました」
俺は返事に困った。
「エヴァリストと組んでいた時ですね。でも俺は裏方ですよ」
「いいえ。エヴァリスト様の腕前も存じていますが、あれはあなたあってのものでしょう」
「妻はわが家の回路魔術師を指導する立場でして」
イラト家の統領が眉をあげていった。
「話のついでにお伺いしたい。私もどこかで貴殿にお会いしたような気がするのだが、失礼ながら思い出せないのです」
「統領、それはきっとアーベルの先祖です」耳ざといエヴァリストが口をはさむ。
「回路魔術の創始者のナッシュはアーベルの曾祖父なのです」
よけいなことを。俺は内心舌打ちしたが、統領は合点がいったというようにうなずいた。
「創始者が? ああ、そういうことか。屋敷のどこかにナッシュの肖像があるのです。水路の開閉を回路魔術で制御したのはわが家が最初だが、彼が手を貸したと伝えられている。面影があるんでしょうな」
ひい爺さんの話題は苦手だ。俺は困ったことになったと思ったが、他家の統領が話に加わると話題はすぐに変わった。三角州の八家がもっとも興味をもっているのは王国との交易で、俺はクレーレに話をまかせる。クレーレは堂々と会話を続けていた。たまに返答を聴き取りそこねた時だけ、俺とエヴァリストが通訳をした。終始なごやかなものだった。
「ここでは川を渡るとちがう光景が待っている」
晩餐のおわりにイラト家の統領はクレーレに向かっていった。
「アーベル殿はご存知だろうが、この都市とは似ても似つかない景色に出会えることだろう。どうか良い旅を」
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