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【番外編】空にあらわれる傷 4

「あの工房で修行していたのか」  クレーレが寝台にどっかりと腰をおろし、突っ立ったままの俺にたずねる。寝台の掛け布には星と花の紋様が刺してある。大陸南部の部族の手工芸品だ。長椅子もおなじ掛け布で覆われていた。 「一年ほどな」  俺は脱いだローブを長椅子へ放りだしかけたが、考え直して箪笥につるした。 「ヤンじいさんは弟子なんかふつう取らないんだが、いろいろ教わった。あそこでエヴァリストに会って……組むことにした」 「なるほど」  クレーレは頭を軽くふり、寝台に座ったまま伸びをする。  今日はヤンの工房を出たあと、町の外でひらかれていた馬市を見物に行った。寝台の掛け布と同様にここの馬も南部の部族の特産品だ。いまだに野生馬の雰囲気を残す荒々しくて美しい馬たちをクレーレは気に入ったらしく、熱心に見入っていた。馬市の隣には物売りの屋台がずらりとならび、この部屋の掛け布のような、紋様を刺繍した小間物がたくさん売られていた。着道楽の上司、エミネイターが喜びそうなショールや帽子のたぐいもある。ひとつふたつ買って戻らないと怒られるんじゃないだろうか――などと考えていたとき、またあの、見られているような気配を感じた。  俺はゆっくり顔をめぐらせたが、周囲に不審な動きをする者はいない。クレーレは俺からすこし離れた場所で屋台を冷やかしていた。彼にあからさまな視線を向けている者は何人もいた。着飾った女たちや、ふところに入れた銃を周囲にひけらかしている男たちだ。だが武人でかつ身分が高そうな他所者がこんなところにいればじろじろ見られるのは当たり前だから、クレーレは気にもしていないし、俺が感じている気配には気づいていないようだ。  クレーレがまったく気づかないとすれば、これは魔力によるものだろうか。精霊魔術師が俺を視ているのか?  ところが俺がそう考えたとたんに気配は消えた。その後は市場の人混みを抜けて町をぶらつくあいだも、宿に戻って食事をする時も、何も感じなかった。  クレーレには話しておかなければ――と思った時、俺はクレーレのシャツが不自然にふくらんでいるのに気づいた。 「それ、何だ?」 「ん?」  クレーレの顔に困惑が浮かぶ。俺は断りもいれず、シャツの胸ポケットに手をつっこんだ。 「匂い袋か。買ったのか?」  クレーレは苦々しい表情になった。 「いや、その……店に来いと誘われたんだ。断ったんだが、これを押しつけられて」  ああ――あれか。胸元を大きくあけたドレスの女がクレーレにまとわりついていたのを俺は思い出した。大陸の南部は男も女もかなり露骨な誘い方をする。もっともクレーレは自分に流し目を送っていた男には気づかなかったらしい。いくら露骨といっても男は匂い袋を押しつけたりはしない。  俺は匂い袋を指先で揉んだ。乾いた花の香りがほのかに立つ。 「クレーレ」 「ん?」 「エヴァリストが到着するまで日がある。町を離れないか」 「どこへ?」 「西だ。見せたい場所がある。道中は野営になるが……」  クレーレの手が急に動いて俺の指先から匂い袋を奪いとると、そのまま部屋の隅へ放り投げた。 「もちろん。行こう」  町を留守にするあいだ、俺たちは荷物のほとんどを宿に残し、念のためエディに見回りを頼んだ。精霊動物使いの彼が便利屋として重宝されるのは、精霊魔術師の悪戯を見抜けるからでもある。  よく晴れて埃っぽい日だった。西へ向かうにはまた川を渡らなければならなかった。貨物船をうかべて悠々と流れる大河ではなく、町のすぐ外を流れる支流である。川幅はそこそこ広いが今の時期は水量も少なく、徒歩でも渡れるほどである。浅瀬を探して俺たちはしばらく川岸を走り、石ころだらけの河原へ降りた。クレーレが先に馬を浅い流れに進め、俺はそのあとについていく。水に入る直前、馬のひづめが丸石を蹴った。――と、急にいななき、首を振りたてて暴れ出した。 「おい、どうした」  俺はあわてて手綱を引き、股をぐっと締めたが、馬は前足を高く上げてパニックに陥っている。水しぶきの音がきこえたが、馬を押さえるので精いっぱいでそっちをみる余裕がない。 「アーベル!」  クレーレの声にかぶさるように銃声が響いた。完全に取り乱した馬が大きく飛び跳ね、俺は馬の背から転がりおちる。また頭の上で銃声が響いたが、石ころのあいだに放り出された俺は起き上がるのに手間取った。誰かの手がローブをつかんだ。振り払うのを失敗し、そのまま上にのしかかられる。 「このっ……」  どうして俺が襲われるんだ。回路魔術師に手を出す賊はめったにいないのに。そう思った時、興奮した声が聞こえた。 「この魔力、やっぱりナッシュの末裔」  はあ?  俺はもがき、足を高く蹴り上げた。逆光で顔はよく見えなかったが相手はひるんだ。こんな風に抵抗されると思っていなかったのか。勢いにのって頭を男の股へ打ちつけようとしたが、すかさずかわされる。ちっ。しかしその時、剣が唸った。  クレーレだ。たちまち俺の体が軽くなり、襲撃者はころがるように俺から離れ、ふところから銃を抜いたが、クレーレは恐れた様子もなく馬に乗ったままつっこんでくる。剣がひらめいて男の手から銃が落ちた。クレーレは軍馬をあやつるように手綱をにぎり、馬の脚にひっかけるようにして相手を地面になぎ倒した。  俺はやっと立ち上がって、這いつくばっている男の上にのしかかった。 「おまえ、何者だよ。どうして俺を狙った?」 「創始者の宝を……末裔ならおまえが……」 「ああ」俺はため息をついた。「またその戯言か。それはでたらめなんだ。残念だったな」  俺のひいじいさんで回路魔術の創始者であるナッシュは、大陸を放浪しているときに奇妙な伝説をあちこちに残した。どこぞに宝を埋めたとか、秘密の地図があるとか。やがて伝説には尾ひれがつき、中には本気で信じている者もいる。さらに一部の精霊魔術師には、俺が彼の血縁だと感じとれる者がいる――らしい。エヴァリストと組んでいた時に二、三度似たような出来事が起きて、わかったことだ。  クレーレが縄をもってきたので、俺は男を縛り、彼の銃をふところにいれた。 「どうする。町へ連れていくか?」 「わざわざ? つまらん物取りだ。ここはまだ町に近い。放り出しておけばそのうち誰かがみつける」  ナッシュに関するあれこれを話さなかったのは、わざとだ。もちろん、機会があれば話そうとは思った。でもクレーレのことだ。一度知ったら根掘り葉掘り聞きだそうとするにちがいなく、そうするとまたもエヴァリストと組んでいた頃の話をせざるを得ない。しかしクレーレは俺があいつの名前を口にするといい顔をしないのだ。 「とりあえず川を渡ろう」と俺はいう。「そうだ、馬はどうなった?」  逃げ出した俺の馬はすこし先の川岸でみつかった。襲撃した男の魔力は俺とあまり変わらない。ちょっとだけまし、というところか。でも動物を脅かしたり、俺にあの視線を投げて、なんとなく嫌な感じを与えるくらいはやれたのだろう。  俺たちは今度こそ川を渡った。ろくに町から離れていないのに、余計な邪魔が入ったものだった。  その先の道のりは平穏だった。道のりといっても、実際はまともな道などみえない草原をただ走るだけだったが。  俺とクレーレのまわりにひろがるのは空と平らな大地だけ。ときおり灌木のあいだを這うように細い水の流れがのびる。隊商と進んだ道も似たり寄ったりだったが、今はふたりだけだ。鳥が鳴き、風が吹く。馬に驚いた草原鹿が大急ぎで駆け出し、すぐにみえなくなる。  俺たちは流れのほとりで二晩野営した。クレーレは火を起こし、俺は皮袋をいくつも水で満たし、濾した。ここでも回路魔術が使われている。これが発明されてから大陸を旅するのはとても楽になった、という。  進むほどに足元の土が痩せ、草がまばらになっていく。砂漠が近づいているのだ。俺は方角を調べて、火のそばに座った。 「明日にはたどりつきそうだ。つきあわせて悪いな」  遠くで獣が鳴いている。火を焚いていれば近寄らないだろう。このあたりには精霊動物も棲んでいるかもしれない。しかし俺もクレーレも、彼らが好んで近寄るほどの魔力を持たない。 「まさか」  クレーレは火のそばに回路魔術が施された鍋を置いていた。蓋をあけると豆の香りがぷんと漂った。 「いったい何をみせられるのか、さっぱり見当がつかない」  俺は煮えた豆を木のうつわに取り分けた。 「俺を湖に連れて行っただろう。レムニスケートの領地で」 「ああ」 「あれのお返しだ」  俺たちは火のそばで毛布にくるまった。月のない空は星でいっぱいだ。このあたりでは雨のかわりに星が降る。燠がはぜる音をききながら俺はとろとろと眠りに落ちる。  翌日の午後なかば、俺たちは草のほとんど生えない砂漠に至った。  俺は馬をとめ、地面に浮かんだ白い結晶を指さした。 「クレーレ、塩だ」 「塩?」 「みろよ」  草一本生えない砂漠のただなかに湖があらわれていた。どんな大地のいたずらか、塩の結晶が露出しているのだ。鏡か硝子のように磨かれた表面は空の青色を映している。遠目には空を映した湖のようだが、水はない。  クレーレが目をみはるのを横目に俺は馬を進め、岸辺で降りた。馬たちに皮袋の水を飲ませ、休ませているあいだに、湖の上にそっと足をふみだす。空の青色をした結晶の上に立つと、自分が空中を歩いているような錯覚に襲われる。 「これは……見事だ」  クレーレが感嘆の声を発した。 「こっちだ」 「こっち?」  俺はクレーレをあとに従えて歩いていく。前にこの場所へ来たとき、俺はひとりだった。どんないきさつでこんなところへ来るはめになったのだったか。何かあったはずなのに、今はあまり思い出せない。でもこの先にあるもののことは、忘れてはいない。  俺は足をとめた。 「クレーレ」  湖の中央に巨大な裂け目が広がっていた。 「あれは……」 「大地の淵だ。これをみせたかった」  裂け目は結晶の湖を中央で分断していた。最初にここへ来たとき、遠目にはまったく見えないのが不思議だった。太陽の角度と空気のいたずらで湖の表面は完全に平らにみえるのだ。しかし実際にここへ来ると、裂け目は傷口のように深く大地をつらぬいている。  俺はブーツの爪先が飛び出すくらい近づき、用心深くしゃがむ。橋をかけないと渡れないくらい幅は広く、深さは見当もつかない。積み重なった結晶の崖が空を映して青く輝き、下の方へ行けば行くほど深く濃い青になる。吸いこまれてしまいそうなほど深く青い大地の傷が、空色の湖を切り裂いている。 「これが……」  クレーレが俺のとなりで腰をかがめた。 「言葉を失いそうになるな」 「大陸広しといえども、これ以上の場所はめったにないぞ」 「ああ……」  クレーレはため息をもらした。俺はその横顔を眺めながら、自分がひどく安堵しているのに気づいた。 「クレーレ、落ちるなよ」 「アーベルこそ」  俺たちは一歩さがり、隣りあってそっと腰をおろした。クレーレの手が俺の肘に触れた。俺は腕をからめ、肩にいつもの彼の体温を感じる。足の先にひらいた淵は太陽が傾くにつれ、ゆっくりと青色の種類を変えた。夕暮れが近くなればなるほど、青の影は濃くなり、深くなる。  以前来たときも俺はここに座っていたものだ。突然俺は思い出した。あの時はひらいた淵の底へ飲みこまれるような気がして、しばらく動けなかったのだ。 「ふたりでみると違うもんだな」  俺は何気なくつぶやき、クレーレの訝しそうな目つきに出会った。 「おまえをここに連れてきてよかったと思ったんだ」  クレーレの目元がゆるみ、口元がほころぶ。理由のない喜びがこみあげてきて、俺はからめた腕に力をこめた。どちらからともなく唇をあわせると、かすかな塩の味がした。

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