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火曜日 その2
夕方十八時半。シノブはバーでのアルバイトに向かっていた。
繁華街の中にあるその店は、十九時から明け方五時まで営業している店だ。
バーの名前は”Bitter”
大通りから少し入った路地にある。アルバイト先までは電車で一駅。徒歩なら二十分ほどで着く距離だ。お客さんの年齢層も三〇代前半以上の比較的落ち着いたお店だ。
「おはようございます」
「おはよう。シノブ君。
今日はちょっと団体の予約入ってるから、
頑張ってくださいよ」
マスターは今日も渋くて素敵だ。
「22時からシノブ君の学校の先輩が、
打ち上げで使ってくれることになってます。
八人で来るそうです」
団体の予約なんて、こんな季節に珍しい。
「なんでも何かの映画の吹き替えの
レコーディングが終わったとかで、
予約もらいましたよ」
なるほど。冬休みに公開になるハリウッド映画の吹き替え録音とかなのだろう。学校の先輩・・・誰が来るのだろう?
「シノブ君は、声優志望でしたよね?
今日来るメンツに気に入られたら何か、
仕事貰えるかも知れないですよ。
色んな意味で気合い入れて頑張ってくださいよ」
マスターはいつも応援してくれている。声優学校の先生の友達なだけある。過去にもこのバーでアルバイトをしていた声優志望の生徒がこの店をきっかけに、仕事をもらえるようになった事があるという話も聞いていた。ますます、今日が転機なのかも知れないと思うシノブだった。
夜22時過ぎ。予約の団体客がやってきた。奥のテーブル席に通す。若い声優さん四人に、ディレクターらしき人が一人、音響スタッフが二人、そして、その後ろには声優の学校時代にお世話になっていた、ボイストレーナーの明石先生がいた。
「あれ?シノブ君?シノブ君だよね?」
飲み物のオーダーを聞きに行った時に、不意に名前を呼ばれた。
「あ、はい。明石先生ですよね。ご無沙汰してます」
「やっぱりシノブ君だ。びっくりした〜。何、アルバイト?」
「はい。学校卒業してから、ここでアルバイトさせていただいてます」
「あ!分かった。霧島先生の紹介でしょ?」
「そうです。霧島先生からここのバーのマスター紹介してもらって・・・」
「ふ〜ん。そうなんだね〜」
何か意味深な返事だ。
「とりあえず、注文お聞きしますね」
シノブはそう言って、全員分のオーダーをとり、マスターに伝えた。
「シノブ君、知り合いがいましたか?よかったですね。何か広がるといいですね」
マスターはいつも優しい。簡単なオーダーはシノブでも作らせてもらえる。だが団体が来たときは、スピードが必要になる。そんな時はマスターに任せた方が早い。シノブは先におつまみなどの用意をした。
「シノブ君、軽くお腹減ってるスタッフがいるから、
何か食べるものも、欲しいんだけど」
そう明石に言われて、シノブは軽食メニューをテーブル席まで持っていった。
「明石先生、紹介してくださいよ。その彼、知り合いですか?」
若い声優の一人が、そう声をかけてきた。多分年の頃は二十五歳くらいだ。
「ああ、悪い悪い。こちらは、僕が教えに行ってる専門学校の卒業生シノブ君。去年まで僕の生徒だった子だよ。」
「どうも初めまして。シノブです。今日はゆっくりして行ってください」
一通りのバーのスタッフとしての挨拶をする。
「ビールがこっちで、ジントニックがこっち。
これ、コーラ?誰?コーラとか頼んだやつ」
さっきの若い声優がテーブルでは仕切ってくれる。
「お前ら、ここはバーなんだから、ハメ外すなよ。
居酒屋じゃないんだから」
そうディレクターに言われやっと席が落ち着いたようだった。
「食べ物の、オーダーお願いしま〜す」
明石がシノブを呼ぶ。
「ナポリタンと、このピザと、フライドポテトと唐揚げちょうだい」
注文を取ってキッチンにオーダーを通す。
「シノブ君、知り合い来てるの?
なんかいい声の人たちだけど、あそこのテーブル」
キッチンのアルバイトスタッフの圭吾君が聞いてきた。
「あ、はい。僕の通ってた声優の学校のボイトレの先生が偶然きてて。声優さんもいらっしゃるので。いい声されてますよね。皆さん」
「そうそう、普段、キッチンまで
ホールの声って入ってこないんだけど、
やけに今日は声が聞こえるな〜と思って、
ちょっと覗いちゃった」
「ああ、確かに。声優さん達声が通りますからね」
「シノブ君も声優目指してるんだったよね。
じゃあ今日はチャンスだ!」
皆同じことを言う。この店のスタッフはいい人ばかりだ。そうこうしている間に、フライドポテトと唐揚げが出来上がった。
「シノブ君、これお願いね。ちゃんとシルバーも持って行ってね」
シルバーとはカトラリーのことだ。取り皿とカトラリーを出して、出来立ての唐揚げとフライドポテトを持っていく。
「あ〜キタキタ。はい、そこ開けて〜」
また、あの若い声優が仕切ってくれる。きっとムードメイカー的な立ち位置なのだろう。空いたグラスを下げつつ飲み物の追加オーダーを取る。
年上組はそれぞれ、好きなウイスキーを注文し出した。
食べ物に手を伸ばしているのは決まって若い声優たちだ。キッチンに戻って、圭吾から出来上がった品を受け取る。全てを運び終わったところでシノブはカウンターに戻った。バーカウンターではマスターが黙々とウイスキーで使う氷を用意している。
時間は23時半。そろそろ電車で帰る人たちが会計を始め出す。シノブは、マスターの代わりにバーカウンターで氷の用意を黙々と引き継いだ。
「シノブ君さ〜かわいい声してるよね〜。あ、チェイサー人数分もらえる?」
カウンター越しの目の前に、さっきの若い声優がいた。
「すみません、気が付かなくって。チェイサーですね。ご用意します」
「俺、芳樹って言うんだ。よろしくね」
勝手に自己紹介をしている。
「あ、はい。こちらこそです」
「シノブ君、明石先生の教え子だったら、ひょっとして、ひょっとする?」
何を言っているのかわからない。
「あの?なんのこと・・・」
そこまで言いかけたところで、明石が割って入ってきた。
「おいおい、芳樹君、スカウトでもしてる?」
「あは。バレちゃった。いや〜シノブ君かわいい声してるな〜と思って」
シノブは黙々とチェイサーを用意する。
「芳樹くん、酔っ払う前にこれ飲んで」
そう言ってチェイサーを一つ手に取り明石は目の前の芳樹の前に置いた。マスターがカウンターに戻ってきた。
「明石さん久しぶりですね。今日は有難うございます」
そうマスターが明石に挨拶をした。
「マスター、ご無沙汰してます。
霧島先生と前来たっきりになっちゃってて、すみません」
「いえいえ、霧島もいい加減なやつですから」
「ははは」
そんな大人の会話が始まった。
シノブは出来たチェイサーをテーブル席に運んだ。
「シノブ君はどこかの事務所に入っているのかい?」
さっきのディレクターが聞いてきた。
「いえ、僕まだどこにも所属はしてません。
たまに知り合いにCMの声入れるお仕事もらえる位で。
まだ全然なんです」
「そうなのかい?かわいい声をしているのにな。
需要があるところにフィットすれば、君、売れるよ」
唐突にそんなことを言われて、嬉しくなった。
「需要があるところ・・・」
「君、一度、オーディションに来るかい?今度僕が携わる作品で、若手を入れようってことになって、オーディションがあるんだよ。かわいい声のキャストを探していた所だし挑戦してみないかい?」
願ってもいないチャンスだ。シノブは、二つ返事で
「はい。是非お願いします。チャレンジしてみたいです」
そう答えていた。
「連絡先はこれね。
この名刺のこの番号。俺田中って言います。
俺に言われたって言って、
事務所に電話かけてくれたらいいから」
「わかりました。
明日、改めて、お昼に事務所にご連絡いたします」
そう言って、名刺をエプロンのポケットに入れた。
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