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火曜日 その3

その日のシノブは三時上がりだった。丁度少し前にあの団体もお開きになって、それぞれがタクシーで帰って行った所だった。 「マスターお疲れ様でした。お先に失礼します」 「お疲れ様です。  今日の出会いがいいものに繋がるといいですね。  頑張ってくださいよ」 本当に素敵なマスターだ。夢の応援もしてくれる。シノブはお辞儀をして店を出た。帰り道、気分が良かったシノブは歩いて帰る事にした。いつもならタクシーを使う所だが、今日は歩きたい気分だった。 家の近所のあの北公園まできた。シノブは浮かれていたのだろう。気が付いたら北東の角から公園に入ってしまっていた。ここは本当に暗い。 引き返そうかと思ったが公園に入った辺りから、なんとなく後ろに人影を感じていた。もうここまできたら、引き返すよりも走って公園を抜けた方がいいような気がしていた。シノブはダッシュで駆け出した。もう少しでマンションの入り口が見える。 「おいおい!!待てって。待っててば!」 後ろの人影が何かを言っている。やっぱり付いて来ている。シノブはますます必死で走る。 「おい!シノブ君!そんなに走ったら、俺ゲロ吐く〜」 ん??名前を呼ばれている。 しかもゲロ吐く? シノブは後ろを振り返った。 そのまま灯りのある所で立っていると後ろの人影が追いついてきた。 「あ、芳樹さん」 「シノブ君走るの早いって!まじで俺ゲロ吐きそう」 「え?やめてくださいよ。まあまあ飲んでるのに、走るからですよ」 「いやいや、だってシノブ君走るから」 「いや、それは芳樹さんだって気がつかなかったから。怖いし・・・」 「あは、それもそうだな。  この公園のこっち側暗くて怖いって有名だしな。ごめんごめん。  それにしても、まじ吐きそう・・・」 「え?ほんとに?  これ、水です。僕の飲み掛けですけど飲んでください」 シノブはカバンの中から、ペットボトルに入った水を差し出した。 「ありがと。ほんと飲んだ後に走るもんじゃないわ〜」 水を勢いよく飲み干した。 「芳樹さんそれにしても何してるんですか?  さっきお開きになってたじゃないですか?」 「そうだよ。だから帰り道。オレンチこの近くだから」 「あ、そうだったんですね。ご近所ですか」 「歩いてたらシノブ君いるから声かけようとしたのに、  公園の中入って行っちゃうし・・・」 「あ、僕ちょっと浮かれてしまってて。  いつもならこの公園この時間  には通らないんですけど、気が付いたら入ってて」 「あ、やっぱり怖いんだ。この公園。ははは」 「だって昔からなんかそう聞いてるから・・・」 「え?何?この辺が地元なの?」 「え、まあ」 「なんだ、じゃあ中学とか後輩かもね。  あ、でも年が違うからかぶってないか・・・」 「芳樹さんって、何歳なんですか?」 「俺?26だよ。シノブ君は21?」 「はい、今年で21歳です。まだ20歳ですけど」 「若いよな〜やっぱり。で、さっきディレクターに  オーディション誘われてたでしょ?  多分、それ俺も受けるオーディション。  だから、何か困った事あったら言ってね。  これでも俺、キャリア10年だし」 「え?10年って。芳樹さんってひょっとして芸名持ってたりします?  声優名みたいな」 「あ、バレた?俺本名の下の名前が芳樹なの。  今日のメンバーは、みんな学生の頃から知ってるから、いまだに芳樹って呼ばれてるけど、芸名は吉木譲治。なんか渋い名前の方がかっこよくない?とか思ってさ〜」 「やっぱりそんな気がしてたんです。  渋い声だな〜って」 「そう?ありがと〜。惚れちゃダメだよ」 そう言ってシノブにウインクをしてみせた。 「じゃあ、これ俺の連絡先だから、何かあったら連絡頂戴。  何もなくても、ご近所だし飯でも食おうぜ〜」 芳樹はそういうと名刺を渡してきた。声優用の名刺だ。事務所の名前と声優名『吉木譲治』と書いてある。名刺の裏には今までの代表作がずらり。実は凄い人なのだ。 「あ、ちょっと何か書くものない?プライベートの携帯番号書いておくから」 「書くものですか。え〜っと」 何もない。 「じゃあ携帯番号言うから鳴らして。番号は090ーーー」 そう言って携帯番号を言うものだからシノブは携帯でその番号にかけた。 「OKok!じゃあこれシノブ君の番号ね。登録っと。じゃあまた、連絡するわ〜。  あ、ラインもこれだな。上がってきた。こっちで連絡するわ〜」 そう言って、スタンプを送ってくる。 「芳樹さん、またオーディションとかでお世話になる事もあるかと  思いますが、よろしくお願いします」 シノブは深々とお辞儀をして、マンションに入ろうとした。 「え?このマンションなの?俺も」 なんと、同じマンションだったのだ。 「シノブ君何号室?ここ実家?」 エレベーターホールでそんな話が始まった。 「実家というか母とシェアしてるというか・・・。7階です」 エレベーターに乗り込む。 「お母さんとシェア?なんかよくわかんないけど。俺はここの1010号室。  一人暮らしだから寂しかったらいつでもおいで」 そう言ってまたウインクをする。この芳樹という人は渋い声の割に軽い。7階にエレベーターがついた。 「じゃあ、また。おやすみなさい。芳樹さん。」 「うん、またねシノブ君。」 ドアが閉まる間際にシノブは突然手を握られた。そして手の甲にキスをされた。ドアが閉まる。シノブは呆然とした。 それはまるでお姫様にするようなキスだった。

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