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木曜日 その1

シノブは今日もアルバイトに向かっていた。今日は夜の21時から朝5時までのシフトだ。 「おはようございます」 出勤した時には既に何人かの客が飲んでいた。カウンターのマスターの前にも一人男性が座っていた。着替えてカウンターに出ると、その人物は霧島先生だった。 「シノブ、久しぶりだな。元気にしてたか?」 「霧島先生、ご無沙汰してます。はい。変わらず元気です」 「そうか。バイトにも慣れてきたみたいだな」 「はい、マスターにも色々教えて頂いて、なんとかやってます」 「霧島の生徒は皆素直な子だから、こちらも教え甲斐がありますよ」 マスターが渋い声で答える。 「ははは。俺は素直な生徒しか、お前の店に紹介しないから」 そういうと、マスターに優しい笑顔を見せている。 「この前明石が来たんだろ?」 霧島が言う。 「はい、ご予約頂いて団体で来て頂きましたよ」 「あいつ、全然顔出してないって、気にしてたからな・・・」 「そのように仰ってました。嬉しい心遣いです」 マスターが答えた。マスターと霧島先生は大学の頃からの友人だと聞いているが、店内のマスターはとてもクールにそつなく返事をしている。 「シノブは今度、オーディションに参加するんだって?明石先生から聞いたよ」 「はい、先日来られた時にMG事務所の方に誘って頂きまして。挑戦してみます」 「そうか。あの事務所のオーディションに受かれば、  一つのとっかかりになるからな。頑張れよ」 「はい。せっかくのご縁なので、頑張ります」 「シノブは、ちゃんと宣伝材料は作ってあるのか?」 「あ、はい。写真は学生の時最後に撮ったものがあるので大丈夫です。  声のサンプルは、今度の日曜に録音します」 「そうか、何か困ったことがあれば言えよ」 「はい。霧島先生ありがとうございます」 そんな会話をしていると三人組のお客が入ってきた。シノブはテーブル席は案内するためにホールへ出た。 「霧島、お前シノブ君のことえらく気にかけてるな」 霧島の前に立つマスターがフランクな言葉遣いになった。 「え?そうか?まあ、シノブはちょっと側から見てて、心配になるのは確かなんだが」 霧島もフランクに答える。 「お前が何人か紹介してくれたアルバイトの子いたけど、 シノブ君以外は別に様子を俺に聞くこともなかったじゃないか」 「そうだっけ?ははは」 「まあ、俺もシノブ君をみてたら、ちょっと心配になることあるがな」 霧島とマスターはそう言って、ホールに立っているシノブを見る。 「だろ?シノブはまだ自分の性的嗜好に完全に気が付いていないというか・・・  小鹿ちゃんみたいだからな。俺らの二十歳の頃とは全然違うからな」 「もう20年くらい前だし、お前と俺の関係は爛れすぎ・・・」 マスターが言う。 「おいおい。そんな事言うなよ。俺はいつでもお前となら一緒に暮らしたいと思ってるのに」 「相変わらずだな、お前は。そんなことホイホイ言えるんだから。ほんと魔性だよ」 「え?俺こんな事お前にしか言わないよ。それに俺よりお前だよ。俺をこっち側に引き摺り込んだくせに」 「お前にその素質があったんだよ」 「ずるいな〜。俺の初めての男のくせに。あの大学2年の冬の事は忘れないぞ。 いたいけな僕を先輩が・・・」 「誰がいたいけだよ。お前イケイケだっただろ」 「ハハハ。そんな事もあったかな」 「どれだけお前のデート相手に探り入れて来いって言われてたか」 「そんな事言われてたのに、俺を襲っちゃうんだもんね〜センパイ」 「それはお前が煽ったから」 「当時俺、性欲に貪欲だったからさ〜」 「そのつけが今だろ」 「おかげで俺、すっかり女にモテない」 「自業自得。女にモテなくてもいいじゃないか、彼氏がいるなら」 「あ、今、俺フリーなの。彼女も彼氏もいないわけ」 「真面目な霧島先生をしてるってわけか」 「そ!だからたまには俺の相手もしてくれよ」 「霧島、お前な〜。俺は今も結婚してるし、彼氏も作ってない」 「はいはい。そうでした。今は渋いバーのマスターだもんな」 「そういうことだ」 「ま、寂しくなったら連絡くれよな。シ・ブ・イ・マスターならいつでも歓迎」 ウインクをしながらそう軽口を叩くと、クレジットカードを出して霧島は会計をした。 「シノブまたな。頑張れよ」 ホールのシノブに一言声をかけて、霧島は店を後にした。 帰り道タクシーを拾おうと大通りに霧島は出た。木曜の夜なのに何故かなかなかタクシーがつかまらない。 「仕方がない。駅まで歩くか」 そう呟くと、駅まで歩き出した。駅のホームで電車を待っていると向かいのホームに明石が立っていた。霧島は明石にラインをした。 ”明石、お疲れ。今お前の待ってる電車のホームの向かいにいる” 明石が携帯を見る。こちらの方をキョロキョロとみた。 気が付いたようだ。着信がなる。 「もしもし、霧島先生。奇遇ですね。電車なんて」 「ああ、今 Bitterに寄ってきたんだよ。タクシーいなくて。  お前、この前行ってくれたらしいな」 「あ、はい。久しぶりでしたけどマスター覚えてくれてて」 「ああ、きっちり覚えてるよ、あいつなら」 「また霧島先生、一緒にいきましょうね」 「ああ、わかった。今日はもう帰るのか?」 「あ、えと。ちょっと用事があって」 「そうか。じゃあまた学校でな」 「はい」 電車がやってきた。霧島は電車に乗り込む。向かいのホームの明石に軽く手を挙げた。明石のホームにもちょうど電車が入ってきた。それぞれの電車は反対方向に向かって走り出した。

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