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第3話

 ニコラスが用意したスーツを着て、浴室の外に出た。広いロビーにはまばらに人がいて、地下とは思えないほど天井が高い。 「ラズロ様、お待たせしました。」  二階の席には白人の少年が座っていた。透き通るように白い肌、細く絹糸のような銀髪。薄い水色の目。ビスクドールのように生気のない顔は美術品のように美しく気品がある。幼い少年の外見をしているが、齢は二百を超えると聞いた。 「ありがとう、ニコラス。」  すっと一礼してニコラスが去ったので、セスは一瞬焦ったが、ラズロは微笑んで言った。 「おいで、セス。」  見た目はセスより年下の美少年なのだが、声もどこか幼さの残るのだが、老人のように優しい響きをもっていた。  セスが隣に座ると、天使のような美しい笑顔を浮かべた。 「お久しぶりです、ラズロ様。」  お辞儀をすると、小さな手が顔に触れた。体温は感じないが、不快感はない。 「顔色が良い。加工品ばかり飲んでいると聞いていたが、安心した。」  子猫を労わるようにラズロはセスの頭を撫でた。 「すみません。ご心配をおかけします。」  ふと、ぴたりとラズロの手が止まった。すっとセスの顔に鼻を近づけた。セスが固まるとぽつりと言った。 「変わった人間の匂いだな。」  ラズロはセスの髪に触れ、驚いている顔をしげしげ見た。  あれだけ流したのにまだ残っているのだろうか。 「ニコラスから報告は受けている。そんなに怯えなくていい。」  さらさらとした髪の毛を指で撫でる。 「罰したりはしない。お前はか弱いから心配だ。」  頭や顎を撫でてラズロは言った。 「ちゃんと食事だけはしてくれ。大叔父上も悲しむ。」  はっと主人のことを思い出す。彼がこのことを知ったら、気にするだろうか。  部屋のすみでちりんっとベルの鳴る音がした。 「すまないな、時間だ。大叔父上にはよく伝えておくから、お前も元気で。」 「は、はい。ありがとうございます。」  セスは頭を下げて、部屋を出た。ニコラスがいた。 「……お待たせしました。」 「なんだよ。浮かない顔をして。」 「……いえ、その……。」  ロルフがハンターだと伝えておいた方がいい。いいに決まっている。しかし言えなかった。ニコラスにもまだ言えていない。 「ハンターをつまんだくらいでラズロ様は怒らないだろ。」 「……ニコラスさん、気づいて……? 」  セスはうろたえた。 「普通の一般人は岩塩の匂いも硝煙の匂いもあそこまでしねぇよ。お前が自主的に連れ込んでたし、物騒な感じじゃなかったから様子見てた。」 「……そ、え……あ、はい……。」  聞かれていた。多分聞かれていた。 「眠いだろ。棺桶行くぞ。」 「はい……。」  セスは申し訳なく思った。これ以上ロルフと関わらない方がいいだろう。  自分はもう人間じゃない。自覚しなければひどいことになる。  アパートに戻ったとき、階段の前で血の匂いがした。一階に住んでいる少年がエレベーターの前にいる。わずかに見えた彼の顔に、なぐられたような傷が見えた。  さっと目をそらしたが、彼から間違いなく血の匂いがする。フードで顔を隠しているのは見られたくないのだろう。 「ケンカ? 」 声をかけると、少年の肩が震えた。一年くらい住んでいて互いに存在は知っていたが、初めて声をかけた。 「……絡まれた。よくある。」  思ったよりも幼く、可愛らしい声だった。 エレベーターが止まった。 「手当しようか。」 声をかけると少年は怪しげなものを見るように見た。用心しているようだ。 「変なことしないよ。」  血の匂いをかいでも飢えを感じないのはロルフのおかげだろう。怪我を親に見られたくないのか、少年はついてきた。 「俺はセス。君は? 」  フードを外した頭は刈り上げられていて、不愛想だがよく見るとまだ幼く可愛らしい顔立ちに見えた。 「ブライアン。あんた、夜しか見ないけどなにしてるんだ? 」  救急箱は、時々別のハーレムの吸血鬼に殴られたときのためかったが、わりとすぐ傷がふさがって必要ないことに気づき、新品のまま使っていない。 「クラブの厨房で働いてるよ。ブライアンのお母さんは看護師? 」 「なんでわかったんだ? 」  すれ違った時に、消毒の匂いやわずかな血、清潔感のある布の匂いがした。彼女のことはなるべく避けていた。 「カーディガンの下からちらっと白衣が見えた。」  ガーゼを貼ると、傷口が隠れた。 「よし。学校で手当てしたことにしてくれよ。知らない男について行ったって知ったらお母さん心配するだろうし。」  ブライアンを廊下まで見送った直後、携帯電話が鳴った。ロルフの名前が出ている。 「セスさん? 俺俺。」  陽気な声がした。 「どうしたんだ? 」  この人懐っこそうな声に圧倒される。弟がいたら、こんな風に慕ってくれただろうかと思う。 「今家? 飲みに行かない? 」  声が扉の向こうからする。そっと、玄関の覗き窓を覗くといた。  家の前にいるのに何故電話をしたのか。これは気づかないふりをしたほうがよさそうだ。 「悪いけど、用があるんだ。」  答えた瞬間扉が開いた。ブライアンを見送った後鍵を閉めなかったことに気づいた。  電話を切るのと同時に扉が閉まった。 「ご主人様に怒られた? 俺とセックスしたから。」  無意識に一歩下がっていた。 「怒られていないよ。ただ、俺のことを心配かけたくない。」  一歩ロルフが踏み出すと下がる。ソファーにつまづいて倒れ込むまで下がり続けた時になって、じわりと恐怖が込み上げた。 「セスさん、なんでさっきのガキ、襲わなかったんだ? 」  見ていたのか、いつからだ。疑問が浮かび、まさかと思う。  盗聴器でもカメラでも仕込む時間はある。 「あんた、なんでそんなに怯えてるんだ? 吸血鬼だろ? 」  言われて少し冷静になった。今ならロルフの隙をついて窓から逃げればいい。いや、逃げる必要もなく追い返せばいい。きっとできる。起き上がろうとしたのだが押し倒された。手が肩を掴んで、押し付けられてソファーのスプリングが軋んだ。  触れられた瞬間、ロルフの肌が近づくとぞくっとした。  開いた襟から見える首筋に噛みつきたい。触れるだけでこんなにおいしそうな匂いがするなら、その生き血はさぞかしおいしいのだろう。  突然手に熱い鉄板を押し付けたような痛みがした。 「これ、当たった? 」  手に小さな火傷ができている。ロルフが襟に刺さったピンバッチを見せた。内側なので気づかなかったが、銀製だ。 「だめだって、セスさん。俺が美味そうだからってぼんやりしてたら死ぬよ? 」  痛みが走ったせいで徐々に落ちついた。今自分が、無意識にロルフの首に手を伸ばしていたことに気付いた。 「ごめん、今、君に触ろうとした。」  ロルフを見ると、彼は無表情に見つめ返す。琥珀色の目はどこかで見たことがある気がした。  大学で、楽しそうな学生を見た時に、その中の誰かにいたのかもしれない。いつも遠くから眺めていた。  彼らと自分は違うと思っていた。同じ人間だったのに。今はもう本当に違うものになってしまっているのに、まだそこに混ざりたいと思っている。 「やっぱり、だめだ。最初から、だめだったんだ。なんで、外に出られるって……。」 悲鳴を上げたいほど悲しいのに、声が詰まった。 「セスさん? 」  ロルフが覗き込む。するりとそこから抜け出すと、セスはカーテンを掴んで引きちぎった。夜景が部屋に差し込む。向かいのアパートはまだまばらに灯りがついていた。 「ちょっ、なにやってんだよ。」  ロルフの手がセスの腕を掴んだ。 「なるべく早く、この街から遠くに行ってくれ。ロルフはニコラスさんに顔を見られてるから、疑われるかもしれないし。」  カーテンを引きちぎった瞬間、部屋に埃が舞った。 「馬鹿なことすんな。戻すから貸せ。」  ロルフの手がカーテンを引く。セスは取り上げられまいと引っ張った。 「だめなんだよ。もう、無理なんだよ。俺、ロルフのこと好きなのに、傷つけようとした……ブライアンは大丈夫だったのに、もうだめだ……。」  涙が頬を伝って落ちた時、泣いていることに気付いた。 「……なんて? 」 「だから、ブライアンは……。」 「その前。」  すんっと鼻をすすってセスは言った。 「ロルフのこと弟みたいで好きなんだ。可愛いと思う。」  答えると不満げな顔をした。 「セスさん、弟とセックスできんの? 」 「するわけないだろ。そもそも俺は人間の時はこ、恋人とかいなかったし……。」 「じゃ弟みたいとか付け足すなよ。いいじゃん、俺のこと好きなんだろ? 恋人じゃだめなのかよ。」  いつの間にか涙も鼻水も止った。 「それは……無理。」 「なんでだよ。」 「俺は人間じゃない。ロルフのこと傷つけたくないんだ。だから、もう……。」  ロルフがピンバッチを外した。なにかと思っていると、キスされた。固まると、舌が口の中に入ってくる。うっかり動いて傷を付けたくない。熱くてぼうっとするほど濃厚な生気を飲み込み、口が離れた。 「俺は、セスさんが好きだ。」  ため息をついて抱きしめられた。 「あんたをここに置いておけねぇよ。俺と一緒に来てくれ。守るから。」  言っている意味がわからず、しばらくセスはぽかんとしていた。  携帯電話が鳴り、はっとした。多分ニコラスだ。 「出るな。……頼むから。」  抱きしめられてセスは携帯電話が取れなかった。伝わる熱が心地よい。  もっと早く知っていれば、違う生き方ができたかもしれない。親の目ばかり気にして、後悔ばかりした。けれど、選んだのは自分だ。 「ありがとう。俺がうまく立ち回れたら、もう少し一緒にいられたのかもしれない。」  おずおずと抱き返す。 「でも、俺はロルフを危ない目に遭わせたくないよ。」 「やだよ。あんた生き血飲むくらいなら股開くだろ。」  宥めるがいっそう抱き着いてくる。  その時、窓を叩く音がして顔を上げた。ニコラスがいた。 「ニ、ニコラスさん。」  窓を開けるとタバコを咥えたまま無言でロルフを見る。ロルフが睨み返す。  ロルフが睨むのも気にせず、ニコラスはタバコの灰が落ちそうなので、セスは灰皿を差し出した。  ニコラスは灰皿に灰を落としてロルフを指さした。 「こいつまた来てんのか。」  ロルフは睨み返す。 「文句あんのかよ。」 ニコラスはすっとタバコを吸い、消えた。  気づいたときには、ロルフの襟首を掴んで壁にたたきつけていた。 「あるに決まってんだろうが。」  無表情に、淡々とロルフを締め上げる。ロルフの方が身体に厚みがあり、逞しい身体付をしているのにニコラスの手を引きはがせない。  さっきのセスとは雲泥の差がある。 「セスは俺がちまちま飯食わせてここまで肉つけたんだよ。てめぇがただの餌なら文句はねぇがよ。」  タバコの先から灰が落ちた。 「餌のふりしてちょっかい出すのは我慢ならねぇな。」 「ニコラスさん、落ち着いてください。」  ニコラスの手を掴んだが、びくともしない。 「ロルフは悪い奴じゃないんです。」 「じゃあなんで遮光カーテン剥してんだよ。」  ニコラスの目を近くで見て、初めて怒っていることに気付いた。 「それは、俺の問題です……。ロルフは関係ないです。ロルフは、俺を、一度だって傷付けなかった。」  セスがニコラスを見つめ返す。  締上げられた腕を抑えて、ロルフが睨み返すがニコラスは興味がないようにためいきをついた。 「ならこのガキ黙って帰らせろ。お前ができないなら俺がここから追い出す。」  ニコラスが窓際に立つ。手負いの獣のようなロルフになんと言っていいのか分からない。だが下手をすればロルフが怪我をする。 「ロルフ、ごめん。」  はぁ、とため息をついてロルフは言った。 「なんの謝罪なんだよそれ。」  聞き返してくれたと言うことは、まだ冷静なのだろうか。 「好きだって言ってくれたのに、ちゃんと応えられなくて。」  ロルフが顔を上げた。 「俺が人間だったら、もう少しはっきりと応えられたと思うんだけど。」 「……つまり、人間だったら俺と付き合ってくれた? 」  とても前向きな言葉に驚いた。 「もし人間だったら俺は三十超えてるよ。ロルフの方が嫌だろ? 」 「そんなことない。」  見つめ返されてドキドキする。 「セスさんが人間だったら、もっと攻めてた。」  顔が近づいた。 「まだやんのかそれ。」  ニコラスが待っていたことを忘れていた。 「また来る。次はちゃんと応えて。」  おとなしく帰ってくれるようでほっとしかけたが、去り際にキスをされた。 「俺くらい美味い餌はめったにいないんだから、勝手にいなくなるなよ。」  ニコラスが新しい煙草に火をつけながら、あっさりと帰って行ったロルフを渋い顔で見ていた。 「見た目よりも頭いいな、あいつ。引き際を分かってる。」 ニコラスが言った。 「なんで、見逃してくれたんですか? ハンターなのに……。」 「殺す理由はまだない。お前の手に付いた火傷は気になるが。」  とっさに隠したがもうすでに見られている。 「昔みたいに無暗に人間は殺さない。面倒なことになる。」  タバコの煙を吐いてニコラスはじっとセスを見た。 「ディーカー家が動いた。」 「ディーカー家、って、四大貴族の? 」  ニコラスはうなづいた。 「下手に動くとあっちに刺激を与える。ディーカーは、ご主人様と縁があるが、今の当主は正直……。」  ニコラスの眉間にしわが深く寄った。なにか込み入った事情があるようだ。  じっとセスを見る。 「あのハンター、上手く手なずけろ。」 「手なっ……。」 「お前に懐いてるだろ。お前も可愛いなら、ちゃんと躾けろ。俺たちのいざこざに巻き込まれてすりつぶされるところ見たくないだろ。」  冗談ではなく、ロルフの命にかかわる状況になって来た。 「俺は、なんで懐いてくれるのか分からないんですけど……。」  ニコラスはじっとセスを見た。 「……お前、けっこう小奇麗な顔してるからな。」 「そうですか? 人間の時はそんなこと全く言われませんでした。」 「吸血鬼になると形状も血を受け渡した主に近づくって言うからな。ご主人様は綺麗な人だから、近づいているのかもな。」  セスの頬を触る。 「じゃあニコラスさんと、俺の顔も似てくるんでしょうか。」 「どこまで近づくか分からないけど、血縁を感じる程度には似るかもな。俺とお前は同じご主人様から血を与えられ得て吸血鬼になっているから。」  ニコラスと自分が同じようになれるとはまだ思えない。 「だから吸血鬼の力使えばあのガキも壁にめり込ませたりできる。嫌なら遠慮なくそこのコミックみたいにぶっとばしてやれ。」  そんなことが自分にできるとは、いまだに思えない。 「俺……いいんですか? ここにいて。」  こんな情けない自分は、これからもニコラスに面倒をかけてしまう気がする。 「時代が違うってのもあるが、ご主人様が無暗に人間を殺すのを嫌ってるからな。お前みたいなのがそばにいいる方がいいんだろう。」  ニコラスは窓の外を確認するように見る。 「ニコラスさんも、ご主人様も、人間に優しいですね。」 「そりゃ俺も元々は人間だ。ご主人様に拾われたおかげで、家族も守れた。」  セスもニコラスに並んで窓の外を見た。  電飾が明々と照らし、夜なのに多くの人が行き来する。 吸血鬼には、人間は餌だ。自分たちと同じ形をしているのに、弱く脆い。 「ご主人様は慈悲深い方だから、弱者を獣のように貪ることを嫌悪している。だからお前が自分の命を繋ぐためでも傷つけて生き血を飲むことに抵抗を持つことを否定はしないし、同時にそのまま餓死するのがつらいとも思っているだろう。」  ニコラスの手がセスの頭を撫でた。 「血は力だ。抵抗があるだろうが、慣れりゃ殺さずに飲める。どこかで割り切れ。」  ニコラスの眼が優しく見つめる。 「……俺に兄さんがいたら、ニコラスさんみたいな人だったら良かった。」  ニコラスが笑った。 「孫よりもお前は若い。」  頭をぐしゃぐしゃ撫でられた。 「孫、いるんですか? 」  人間なら百歳を超えるのだから、もし吸血鬼になる前に結婚していればいても不思議ではない。 「去年死んだ。」  聞いてはいけないことだった。 「それでも、曾孫がいりゃ嬉しいもんだ。」  ぐしゃぐしゃとセスの頭を撫でた。父親にもこんなに優しくされたことはなかった。

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