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第5章:弥生

僕は結局あれから朝まで働き、 その後ふらふらの足で3日ぶりに帰宅した。 僕が住むマンションは病院から電車で二駅のところにある。 誰も迎えてくれない1LDKの部屋は 学と死別してからいつでも逝ける準備をする様に 最低限のみ残し、他全ては捨ててしまったため モデルルームのように殺風景だ。 学と撮った二人の写真も プロ野球選手になった学が 一軍昇格した時のお祝いで撮った写真1枚のみが 引き出しの中にひっそりとしまわれている。 口を閉じて照れながら笑う僕と、 大きな口の口角をぐっとあげ、 白くて並びの良い歯を見せながら笑う学。 一番幸せそうだった学を 自分の中の学として 残したかった。 コンビニで買った 菓子パンとスポーツドリンクが入ったペットボトルを 小さなレジ袋から取り出し 朝食というのか、夕飯というのか、 何と括ったら良いのか分からない食事を、 味わうというよりも、 ただエネルギーを補給するように摂取した。 テレビも付けず 誰からもかかってこないスマホも見ず、 掛け時計の秒針がカタカタと進む音だけが聞こえる部屋で 僕は唯一の趣味であるクラシック音楽をステレオでかけた。 Elegie(エレジー)。 ロシアの作曲家、ラフマニノフが20歳前後に作った ロシアクラシック独特の哀愁を帯びた切なく、 でも美しい旋律に数分間酔いしれた。 聴き終えた後その余韻に浸りながら 僕はベッドルームにある この部屋には大きすぎるキングサイズベッドに寝そべった。 選手時代、シーズンオフや遠征がない時など よくうちに泊まりに来ていた学のために スポーツ選手が愛用しているというベッドのブランドで、 190cmの長身で肩幅も広かった学でも 寝心地が良いキングサイズのベッドを特注した。 そんな贅沢すぎるベッドの真ん中に寝ることに 僕は未だに慣れなくて どうしても学が寝ていた左側を開けてしまう。 学はプロ野球を引退してからは 僕の家に入り浸ることも多かったため 僕は左側を向いて寝ることが癖になり それもそのままだ。 そんなベッドの中での思い出は多いはずなのに 8年経った今、 学の肉体や温もりを もう断片的にしか覚えていない。 いつも、どうにか思い出そうとして うまく寝付けない。 しかし今日は違った。 包み込まれた上腕二頭筋の圧、 触れ合った首の温度差、 消毒液の匂いに混ざった ほんのりとする甘いチョコレートのアロマ。 頭にも、体にも、 はっきりと残っている、 学のではない温もりを幾度も思い返している。 学との過去が詰まったこのベッドで 他の男のことを考える僕を 学はどう思うのだろうか。 夕方、目が覚めた僕は、 そんな小さな背徳感から脱れるように家を出た。 オレンジ色の空が藍色に変わる前に病院につき いつものように仮眠室に直行すると、 長谷部と研修医の山田が 真ん中にあるベンチに座っていた。 「お疲れ様です。」 「お疲れ様です。」 「お疲れ様。」 なんとなく、長谷部と目を合わせることが出来ず 僕は下を向きながら挨拶を返し、 右側にあるロッカーにそのまま向かった。 長谷部はとても熱心に 研修医の中でも一番手先が不器用な山田に 傷跡が残りにくくするための縫合のやり方を教えていた。 「弥生先生の縫合はすごく綺麗だから、 参考にするといいよ。」 長谷部は手を動かしながら、 ロッカーに荷物を置いていた僕の方を見た。 すると研修医の山田は素直に、 「はい。」 と元気の良い声で言った。 若いな・・・。 「あとは家で練習しな。」 そう長谷部から言われた山田は、 「ありがとうございました。」 と長谷部に礼を告げた後、ささっと着替え、帰って行った。 長谷部は、なぜか その後もそのまま仮眠室の真ん中に設置されているベンチに居座り ロッカー傍にあるワードローブから 洗濯されたスクラブや白衣を取り出していた僕に話しかけた。 「体の調子はどうですか?」 「・・・あぁ、大丈夫。」 「診せてもらえませんか?」 「え?」 「外傷の経過を。」 「もう全然平気だから必要ないよ。」 「なら、診せてください。」 「いいって。本当に。」 「それでは着替えるときに ここから確認だけさせてください。」 「・・・あー、分かった、分かった。」 断るのももう面倒くさくなってきた僕は それに了承した。 2メートルほど先に座る長谷部の前で 僕は背を向け、着ていた薄めのセーターと Tシャツを いつもの様に脱いでいった。 「前も診せてください。」 言われた通り体を長谷部のほうに向けると、 右肘を組んだ右腿の上に乗せ 手を顎に当てた長谷部が こちらをじっと瞬きもせずに見つめていた。 何の言葉を発することはなく 濁りのない漆黒の瞳が ただただ僕の上半身に視線を送る。 見られているのではなく ただ単に診られているだけなのに、 なぜか体が熱くなってきた。 僕はどうしたら良いのか分からず 15秒ほどそのまま立ち尽くしていると、 「分かりました。続けてください。」 と長谷部がやっと口を開いた。 そう言われ、 黒いジーンズのタックボタンを外し、 ジッパーを下ろした。 タイトな形だったが、 太腿に肉がないので 金具を緩めると、スルッと脱げてしまった。 異様な緊張感と、恥ずかしさに、 体の中心から体温が上昇していくのを感じる。 白のボクサーパンツだけになった僕は、 全身と比例するように火照った下半身が露わになるのを隠すため 床に落ちたジーンズを拾い それを何事もないように股間に抑えつけた。 「もう後ろを向いていただいていいです。」 長谷部は僕の状況に気づいたか気づかなかったのか 僕からパッと目を背け、そう言った。 それから居心地の悪い沈黙の中、 僕は長谷部に背を向けながらスクラブを着衣した。 膨れ上がる下半身は、そのままだ。 「俺、先医局に戻ってます。」 長谷部は素っ気なくそう言い、 顔も合わせず仮眠室を出た。 僕は振り向き長谷部がいないことを確認すると 瞬きもしないうちに 仮眠室の奥にあるトイレに駆け込み、 ズボンと下着を下げた。 そして解放された硬くなったものを 右手で強く握ると 猛スピードで上下に扱いた。 つい出てしまう吐息は思ったよりも大きい。 あの黒目。 僕をじっと見つめていたあの黒目が 頭から離れない。

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