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鏡花⑷
洗面台で手を洗いながら、鏡に少し火照った顔の自分が映る。和食に合うからと珍しく日本酒を飲んだ。酒は美味しかったが、軽い飲み口に早いピッチで飲んだこともあり、いつもより酔うのが早い。撮影に影響があってはいけないので、翌日に仕事があるときは極力飲まない。明日がオフということもあって、少し羽目を外して飲みすぎてしまったかもしれない。
(あんまり遅くなるといけないし、そろそろ戻ろう)
軽い酩酊状態で気分が良かった。外へ出ると、廊下で藤崎と鉢合わせる。お手洗いは一つしかないので、待っていたのだろうか。
「お待たせしてすみません。空きましたよ」
キキがすれ違いざまにそういうと、藤咲はキキの手首をつかんだ。
「何っ、」
急な出来事にキキはよくわからないまま、手を振り払うこともできない。生憎フロア全体が個室ということもあって、ほかの客席からは自分たちは見えない。
「今日は何できたの?」
藤咲がにじり寄ってきて壁際にキキを追いやる。
「いつもは誘いを断るのに、実は相模のこと狙ってたの? それとも俺のこと? 俺、キキならいいよ」
藤咲のその言葉に一気に酔いがさめていく。
キキはアルファのこの自信過剰で傲慢な態度が何よりも嫌いだった。勝手に他人を品評するところも、誰からも好かれていると思い込んでいるところも。
酔ったアルファはなお扱いが難しい、機嫌を損ねるとどうなるかわからない。騒ぎ立てるのも他の客の迷惑になるので、慎重にならざるを得ない。
「僕そういうつもりじゃ、今日はみんなで楽しく食事をする会じゃないですか」
できるだけ丁寧に、断定的な否定をせずに様子を伺う。
「そろそろ戻らないと。タイチ君も相模さんも待ってるだろうし」
「今タイチ君と相模はいい雰囲気だから戻るのも野暮だし、二人でこの後抜けようよ」
先ほどまでの二人の姿を思い出す。相模は手を外すこともしていなかったので、まんざらでもなかったのだろうか。だが、二人がいくらいい雰囲気でもキキには関係のないことだ。
「明日オフでしょ? 俺もオフだし、夜景がきれいに見えるいいホテルがあって、そこのバーで飲み直さない? キキもきっと気に入ると思うよ」
藤咲はキキが断らないことをいいことに耳朶を食んできた。じんわりと腰に快感がにじむが、生理反応であってそれ以上でもそれ以下でもない。だがより近くで感じる、ダメ押しのアルファのフェロモンに段々と脳が揺さぶられていく。
「断らないのは、良いよってことだと受け取るよ」
藤咲はギラギラとした目をしながら、舌なめずりをした。
(こんな男となんて絶対嫌だ……!)
意を決して反撃の構えに入ろうとしたとき、相模がひょこっとこちらへやって来た。
「遅いから心配したよ。大丈夫? 酔っぱらった?」
わざと明るい調子で話しかけてくる相模。助け船のようだった。
藤咲はキキにだけ聞こえるような舌打ちをした。
恥かかせやがってと言わんばかりに、藤咲はバツの悪そうな顔をする。だが、すぐにいつもの様子に戻り「ごめんごめん」と相模に言った。掴まれていた手も離され、自由になる。
「日本酒を飲みなれてないからよろけちゃって。キキに助けてもらってたんだ」
「そう。俺が付き添うから、キキは先に部屋に戻ってて」
相模は顎でキキを促す。キキは軽く頭を下げてその場を後にした。
食事会は相模の助けもあり、その後は何事もなく無事に終えることが出来た。
俺が誘ったからと、その日は相模が全てを支払った。借りが出来たようで、キキは少し嫌だった。素直に喜ぶことが出来れば可愛いかもしれないが、キキの性格上そうもいかない。
「今日はありがとうございました」
キキは店の前で相模に礼を言う。
「気にしないで。俺が無理に誘ったし」
「それだけじゃなくて」
「ん? 他に何か俺したかな」
キキとしては、食事をご馳走になったことや藤咲との一件を含めての礼であった。しかし、相模はピンと来ていない様子だ。藤咲本人もまだいるし、わざわざ蒸し返すのも違う気がして、説明をすることはしなかった。
「いえ、別に気にしないでください」
「そう」
「楽しかったです」
「俺もキキと食事が出来て楽しかったよ」
キキは以前よりも相模に対して優しく接することが出来るようになった。今日一日で、相模に対する印象がだいぶ変わったと自分でも感じる。
「ではまた、仕事で。気を付けて帰ってください」
いつもなら、そんな気の利いた事さえ言わないのに、つい言ってしまう程には。
「うん、またね。キキも気をつけてね」
そう言って店の前で相模と別れた。
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