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3,夏氷

(思えば今日は朝から身体の調子がおかしかった。けど、後悔してももう遅い)  今日を含めて一週間は発情期の予定だった。 キキは些細なストレスで発情期が来ないなど、身の回りの環境から影響を受けやすい。そのため、リスク回避のために発情期の前後は余裕をもって仕事を入れないようにしている。しかし、今回は運が悪くクライアントの都合により、予定したよりもかなり仕事が後ろ倒しになってしまった。自身の都合で仕事に穴をあけることもできない。ただでさえ押している仕事なのだから、延期を掛け合うという選択肢はなかった。  心配するマネージャーをよそに、「大丈夫」とキキは言った。  薬さえ、やり過ごせる。  あまり好ましい状況ではなくなるが、致し方なかった。  おかげで発情期は撮影の最終日になってもやってはこない。  写真の最終チェックが終わり、先方からもOKが出る。 (これで帰れる……)  そう思った瞬間、自身の身体から濃いフェロモンがどっと溢れ出たのがわかった。 (なんで……?)  自身でもわかるほどの、強烈なオメガ特有のフェロモンの匂いに戸惑いを覚える。 (あの薬は飲んでいない。……何か身体がおかしい)  周囲も段々と匂いに気づいたようで、口々に「何かいいにおいがする」「誰のフェロモン?」と言い合う。その声に、いつもと違う、何か異常事態が起こっていることに気づいた。いてもたってもいられず、キキは自身の荷物のある場所へ駆け出す。  カバンから抑制剤を入れているポーチだけを抜き取り、一目散にトイレへ逃げ込んだ。  息を切らし、肩を上下させて、キキは青ざめる。道中すれ違ったアルファ達も、匂いに反応しているようだった。この場所がバレると、どうなるのかわからない。不安でたまらない。 (いつもより濃く出てるんだ。早くこの薬飲まないと……)  発情時のフェロモンを緩和するには、抑制剤を飲むしかない。 それはわかっているが、飲む決心がつかない。キキも抑制剤がどのような効果をもたらすかを十分にわかっている。……わかっているからこそ、手が震えて止まらない。  だが、いつまでもこのままではいられない。初めての感覚にどんどんと意識が飲まれていく。このままではアルファやベータにいいようにされるのがオチだ。 「くっ……、ごめんなさいっ……」  泣きながら、意を決して抑制剤を二錠、嚙み砕いた。即効型ではないから、効くまでに時間がかかる。鍵を締め切った個室に籠城するしかなかった。ポーチしかもって来なかったせいで、どれだけ時間が経過したのかが全く分からない。一秒が永遠のように感じられた。  すでに個室のなかは自分の匂いでいっぱいで、抑えられているのかすらわからない。 (せめて携帯があれば)  今日に限ってマネージャーを先に帰してしまった。誰も迎えに来てはくれない。現場にも仲のいい人はおらず、キキが戻らないからと心配で探してくれる人もいないだろう。 (いや、この状況で来られても困るだけ……。せめて女の子なら……)  女の子なら妊娠の心配もないし、助けてくれるかもしれない。だがここは男子トイレ、入っては来れない。しかも関係者なら誰でも利用できる場所だ。  一向に薬が効いてくる気配はない。第一初めて服用するから、キキは感覚がわからない。 (どうすればいいんだろう。こんなに意識がぐらつくのは初めて、) (このまま正常な判断が出来なくなって、自分が、鍵を開けてしまったら……?)  今日の撮影でかかわっただけでもアルファは三人。ビル全体なら一体何人だろう。考えるだけで恐ろしい。  アルファはオメガのフェロモン中てられては、自制心が利かなくなる。自身の理性ではもうどうすることもできなくなってしまうのだ。それに何か問題が起こっても、責任はオメガ側にあるとされてしまう。フェロモンでスキャンダルを起こせば、業界にもいられなくなる。 (どうせ、抑制剤はフェロモンを弱めるだけ。緩和自体はしてくれない)  ならいっそ、とキキはポーチから注射型の抑制剤を取り出す。先ほどとは比べ物にならない震えが全身を駆け巡る。それは、ホルモンの分泌自体を抑制する、キキにとっては劇薬ともいえる代物だった。主治医からの使用は止められているが、何かがあった時のために、と一本だけ常に持ち歩いていた。  使い方の講習とともに副作用について説明された気もするが、今の頭でははっきりと思い出すことが出来ない。キキはパックに書いてある使用方法のイラストを参考にし、思いっきりお腹に針を突き刺した。双方の目から、痛みとは別の涙が溢れ出る。 「っっ、……!」  薬が入ってくる感覚出した。少しするとすぐに身体は平静を取り戻す。息をするのさえ苦しかったのが、嘘のようにましになる。思考も徐々に正常になっていく。  しばらくして大丈夫だと判断したキキは、乱れた服を正して個室を出た。  注射型の抑制剤は想像以上に効き目があるようだった。 (驚くぐらい楽になった……。でもいつまで持ってくれるかわからない)  薬が切れればまたホルモンが分泌され、発情状態になるかもしれない。あくまで薬で抑え込んでいるだけに過ぎなかった。 (今のうちに早く戻って助けを呼ばないと)  急ぎ足になったのがいけなかったのか、フロアの角を曲がるときにパチンっと弾けるような頭痛に襲われた。脳の中で何かが暴れている、それくらい激しい痛みだ。あまりの痛さに立ってもいられず、空しくずるずると壁に縋りつく。しかし、足は踏ん張りも利かず、床に座り込んでしまう。_薬の副作用が現れたのだった。  注意書きには何と書いてあっただろうか。頭痛、めまい、嘔吐……、思い出せない。 ちゃんと読めばよかったと思っても、もう遅い。ひどい頭痛と虚脱感はどんどんと酷くなっていく。この状態でアルファに見つかれば一貫の終わりだった。 「誰かいるの?」  近くで心配そうな声が聞こえた。視界はぼんやりしていて何もわからない。なんとなく聞き覚えのある声だな、と思った。 「たす、…けて、……」  そこでキキは意識を手放した。

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