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夏氷⑵

 目が覚めると、キキはベットの上にいた。  抑制剤が効いているのか意識は晴れて、副作用もなく気分も落ち着いている。  ものがあまり置かれていないその部屋は、ホテルの一室のようだった。 (ホテル……⁉)  衣服を確認するが、最低限緩められているだけで脱がされた形跡はない。後ろに違和感もなければ、だからと言って前がすっきりとした感じも特にしない。  額に手をやると熱を冷ますためのシートが張られていた。 (発情期(ヒート)のオメガのフェロモンに()てられない人が助けてくれた……?)  キキの記憶はトイレから曖昧だ。注射を打ったことまでは覚えているが、その後の記憶がない。力尽きる前に誰かに声を掛けられた気もする。  備え付けのソファには自身のカバンと上着が置いてあった。  ここに自力でたどり着いたとは考えにくい。同業者の誰かが助けてくれたのだろうか。 (とりあえず、何事も起きなくてよかった……)  助けてくれた相手は女の子だろうか。いや、でも、と考え直す。  女の子が一人で、いくら細いと言っても成人男性である自分を運べるとは思えないし、微かに記憶に残る声は男だったと思う。 (じゃあ誰だ。フェロモンが効かないベータの男か?)  でも発情期のオメガのフェロモンは、男なら多少は誰でも中てられてしまうはずだ。 (抑制剤がちゃんと効いたのかな)  真偽のほどは定かではない。何分、キキは自分が他のオメガとは違うことを自覚している。 とりあえず帰る手段を立てないと、と考えていると、寝室の戸が開いた。 「気分はどう? 熱は下がった?」  現れたのは相模だった。相模は手に持っていたペットボトルの水をキキに差しだす。 「……ありがとう」  キキは戸惑いを隠せない。予想に反して現れたのは「アルファ」。 (発情期のオメガと一緒に居て、充てられないアルファなんているの?)  キキは水を飲もうとペットボトルの蓋に手を掛けるが、硬くてなかなか開けられない。見かねた相模がボトルを奪い、開けてから差し出してくれた。 近くに来た相模からは、甘いアルファのフェロモンのような匂いがした。 「……相模さんが助けてくれたんですか?」  上目遣いで、キキはそう尋ねた。 「廊下に倒れてたからびっくりしたよ。身体も熱いし、無理のしすぎじゃない?」  その口ぶりは、キキのことを風邪か体調不良だと思っているようだった。「熱は引いたようだね」と、キキの首元に触れながら言う。 アルファが触れているのに、何も感じない。 (この違和感は何?)  相模は怪訝な顔をするキキを心配そうに見つめる。演技ではなく本当に心配そうな表情を見せる相模に、どこまでもアルファらしくないと思った。自分の知っているアルファは、こんなに優しくない。下心もなく、世話を焼くこともない。 「……ありがとうございます。もう大丈夫」 「このまま起きなかったら病院に連れて行こうかと思ってたんだ」 「そういえばどうやってここに運んだんです?」 「今日はたまたまマネージャーが用事でこれなくて、自分の車で来てたから車で運んだんだ。マネージャーさんに迎えに来てもらおうとも思ったけど、勝手に荷物触っていいかわからなかったし。ここは現場近くのビジネスホテルね」  「あっ!」と相模が大きな声を出した。どうしたのかと、怪訝そうにキキは見つめる。 「誓って言うけど、何もしてないから!」  相模はプイっと視線を逸らしながら言った。心なしか、耳まで赤い。 「はぁ、」  その相模の態度に、返事にもならない呆れたような声が思わず出てしまった。 「自宅に連れ帰るよりはましかと思っただけで、必要最低限しか触れていないから」  相模が身振り手振りを加えて身の潔白を説明するが、耳をすり抜けていくばかりだ。  キキとて、そんなことはわかっている。何事もないことくらい。紳士的というか、奥手というか。据え膳と自分で言うのは嫌だが、状況はそうだった。 (フェロモンを感じる器官が鈍感なのかな)  アルファとオメガには匂いを感じるための受容体がある。たまにその受容体に異常をきたしている人がいて、その人たちは匂いを感じられない。なかには全く感じられない人もいる。 ベータに関しては受容体がそもそもないので、フェロモンの匂いはわからない。一部のベータがフェロモンで興奮するのはその匂いによってではなく、フェロモン自体の興奮作用によるものだ。  デリケートな問題につき、あなたもそうなのか、とも聞くわけにはいかない。 自分だってカバンの中に入っている薬の種類を見られると困る。 「あんまり頑張りすぎちゃだめだよ。たまには休まなきゃ」  風邪は万病のもとだっていうだろ、とまぶしい笑顔で言われる。 (本当に風邪だと思っている? それともそういうことにしておいてくれているの?)  相模の本心がわからず、ますますキキは困惑する。不思議な男だ。 「どうする? 俺は帰るけど、このまま泊っていく? それとも送っていこうか?」  相模の申し出に、キキは首を振った。 「迎えに来てもらうから大丈夫、です」  相模にホテル名を教えてもらい、マネージャーの吉沢に連絡する。すぐに既読が付き、迎えに来てもらえることになった。 〈着きました〉と連絡をもらい、部屋の前まで迎えに来て欲しいと頼む。相模に駐車場まで付き添ってもらおうかとも考えたが、やめた。 「お大事に」 帰り際、相模は袋いっぱいの果物のゼリーと、熱さまし用のシートをキキにくれた。

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