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8,溢水
「相模さん、今日はクライアントの重役の方がお見えになるので、もう少ししっかりしていただかないと困るのですが」
相模のマネージャーである神崎は、一段と覇気のない相模を叱咤する。
「何が不満なんですか。今回は会社のPRキャラクターに抜擢されたんですよ。しかも大会社、コネクションを作っておいて損はない相手です」
神崎は遣り手だが、それは仕事に関してだけ。あまりメンタル面のフォローはしてくれない。いい仕事を取ってきてくれるが、たまにどんな売り込みを掛けたのか怖くなる時もある。
「恋煩いもいい加減になさい」
「恋煩いって、あれから大人しくしているだろ。もう何カ月経ってると思うんだ」
相模はキキとの熱愛報道が出てから、表面上はキキとは絶縁していることになっている。
言うなれば、相模は保護観察中で、神崎はお目付け役だ。キキと出かける際には細心の注意を払っているものの、もしかしたら気づいているかもしれない。
「トップアイドルなのだからその自覚を持ってください。『相模圭一さん』」
神崎は語尾を強めるようにして言った。
(トップアイドルじゃなくて、ドル箱のまちがいだろ)
相模が神崎に対し反抗的なのは、神崎が、自身がベータだということを知る数少ない人物だからだ。知っていて、そのように言っているに違いなかった。相模がベータだと知っているのは事務所内でも神崎と社長だけだ。もとは神崎は相模をスカウトしたところから始まり、異例の研究生から専属マネージャーが付いているという厳戒態勢のもと今日まで相模は活動を続け、神崎との腐れ縁は継続されている。
不幸中の幸いか、神崎は依然として相模のマネーシャーではあるものの、専属ではなくなった。長い間の信頼関係もあって、自分一人で行動できるようにもなっていたのだが、キキの一件もあってまた雲行きは怪しくなっている。
『あなたも私がまた専属マネージャーになるのも嫌でしょう』
相模にとってその言葉は何よりも脅しとしての効力を発揮していた。
「ほら、着きましたよ」
いつの間にか車はスタジオの駐車場に入っていた。
外に出る前に、いつもより念入りに香水を振った。
「ほら、相模ご挨拶なさい」と引き合わされた相手は、あの男だった。
「相模?」
神崎に、男にわからないように小突かれる。
「はじめまして、この度は任命していただいてありがとうございます。××プロダクション所属の相模圭一です。精一杯務めさせていただきます」
仕事なの内容として、企業側が新しい事業を若年層向けに始めるため、その企画を宣伝するというものだ。一様に企業と言っても、今回は大手金融会社、誰もが知っている会社だ。企画や趣旨は渡された資料から読み取り頭に入れてきたつもりではあったが、目の前の相手のことでかき消されていく。
(この人が重役……)
なんともやり辛い。
向こうは相模に気づきようもないのだが、自分はこの男の一部を知っている。
「今回は話を受けてくれて嬉しいよ。私は佐伯結城だ」
差し出された手を握り返しながら、存じ上げています、と心の中で答える。
「まさか次期代表取締役である佐伯様から、直々にご挨拶いただけるとは光栄です」
神崎がそう言った。
「今はまだ常務だ。何もそんなにかしこまらなくていい。相模君には期待している」
次期代表取締役という言葉が聞こえ、ますます気が触れそうだった。
「ありがとうございます。ご期待に沿えるよう、尽力します」
相模が営業スマイルでそう返すと、佐伯はおもむろに相模の手を引いた。少しだけ二人の距離が近づく。そして佐伯は相模にだけ聞こえるように「先日はどうも」と言った。
(まさかこの男、気づいて……⁉)
そうでなければそんなセリフは言いようもない。相模圭一として会うのは絶対に今日が初めてだ。それに今は仕事中だから香水を纏い、自分はアルファなのだ。あの時はありのままで、匂いなんてなかった。
「そうだ、この後は何か仕事はあるのかい?」
佐伯が神崎に尋ねる。
「いえ、この後は終日オフになっております」
「ではよければ親睦を深めるために相模君と食事に行きたいのだが、できれば二人で」
「ええ是非」
神崎は最初からそのつもりでスケジュールを開けているに違いなかった。思いがけず向こうから誘ってきたので、手間が省けて喜んでいるのだろう。
「さぁ、相模。しっかり楽しんで」
かつてないほどの満面の笑みで相模は食事に送り出されることになった。
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