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溢水⑵

「急で悪かったね。予定は本当になかったのかい?」  相模は高級ホテルの屋上にあるレストラン、しかもVIPルームに連れてこられていた。長い机の体面に佐伯は座っている。ガラス張りの外は絶景の夜景であることは間違いなかったが、見ている余裕など微塵もない。 「いえ、大丈夫です。こちらこそ自分なんかが食事に誘ってもらったりして恐縮です」 「何も身構えることはないさ」 「はあ」  二人きりで話すことなどない。親睦を深めるためと佐伯は言っていたが、佐伯が気づいているのなら、本当のその目論みは一つしかない。 「君くらいになると放っておく人なんていないんじゃないのかい?」 「そんなことないですよ。こんな機会もめったにないですし」 「君はアルファだ。クライアントだけでなく、嫌でも周りが放っておかないだろう」 「ははは」  その言い方に、やはり佐伯は気づいているのではないかと、相模は思った。  褒める口とは裏腹に、こちらの出方を伺っている冷ややかな目が怖い。 「それなら佐伯さんもアルファなんですから一緒でしょう」 「私には愛する『番』がいるからな。わざわざ浮名を流すこともしないさ」  そう言って佐伯は、相模に左薬指にハマる指輪を見せた。 (結婚もしていたのか。それほどその『番』が大切なのか)  しかし、あの時店で遭遇した佐伯はキキに対して切迫しているようだった。執着しているくせに、すかしている態度が鼻につく。 (それに不倫かよ)  アルファは多重にパートナーがいることが珍しくないが、ベータの自分にはその感覚がわからない。好きな人は一人だけ、ではないだろうか。もちろん人の気持ちは移ろいやすく、確約されたものではない。でも、同じ熱量を別々の人に向けることはできないように思う。 「恋人はいないのかい?」 「ええ、いません」  相模がそう言うと、佐伯は訝しげな顔でわざとらしく言った。 「おや、店で会った時には堂々と私に交際宣言をしていたのに」 「なんのことだかわかりません。佐伯さんの思い違いでは」 「その様子だと、君は気づいているんだろう?」 「何の話だか僕にはさっぱり」 「あの日、真白と一緒に居たのは君だ。相模君」  とぼけるしか道はない。認めてしまえば、自分がアルファでないが露呈されてしまう。 「ああ、もっとも、君がアルファであろうとなかろうと私は興味がない。私が聞きたいのは真白についてだ。なぜ君が彼と一緒に居る」 (バレてる)  この男は、自分がベータだと確信づいている。 「もう一度わかりやすく言おう。なぜベータの君がオメガの真白と一緒に居る」  睨みを利かせた目で佐伯は相模を射抜く。  冷たい目をしているくせに、その視線はキキのことになると途端に熱くなる。  抵抗するだけ時間の無駄のような気がした。  だが、キキとのことについて話す前に、最低限の悪足掻きはしておきたかった。 「すみません。僕もキキも有名人同士なので簡単に認めるわけにはいかなくて。一度週刊誌にもとられていますし、大っぴらにしないでいただけるとありがたいのですが」  相模は気取った態度で言った。佐伯は相模の意図がわからず不思議そうな顔をする。 「休日はああしてベータのふりをして出かけるんですよ」 「ベータのふりだと?」 「ええ」 「あの日君から匂いは全くしなかった。でも今日はする、と言うのは不自然だとおもわないか。小耳に挟んだが、今はアルファのフェロモンを模した香水があるとか。市場では出回っていないと聞いたが、君ならそれについて詳しいんじゃないのか」  佐伯な挑発的な態度は、相模をイラつかせる。だが、伊達に長年俳優をしているわけじゃない、ポーカーフェイスなどお手の物だ。 (今の俺は、アルファだ) 「差し出がましいようですが、佐伯さんにいいことをお教えしますよ。アルファの匂いを模した香水があるのと同じように、それを打ち消す香水もある。匂いを相殺して、無臭化するんです。マーキングばっかりするのも品がないですから」  相模の言葉はハッタリだ。だが、ここで引くわけにはいかない。 「よければ今度お渡ししましょうか。でも、佐伯さんには『番』がいらっしゃるから余計なお世話でしょうか。それでお二人の仲がこじれても気が重いですし」  淡々と相模が言うと、聞いていた佐伯が忌々しそうにため息をついた。 「結構だ。俺は君が真白と一緒に居た人物だと、認めてくれればそれでいい」 「ご納得いただけたならば、こちらも安心して認めることが出来ます」 「認めるんだな?」 「ええ」  ベータであるという疑いを払拭できれば、後は本当のことを話すだけだ。 キキとのことを邪推しているようだが、自分たちの間には何もない。 「真白と君は恋人関係なのか?」  長い交戦を終えて、やっと本題に入った。しかし、話の腰を折ることになるが、それでも訂正したいことが相模にはあった。

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