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溢水⑷

*** 「チッ」  佐伯は、帰りの車中で舌打ちをした。  どうやら自分は、相模圭一という男を侮っていたようだ。 「珍しいですね、結城様が舌打ちなんて。その後様子では、相当応えてらっしゃる」  運転をする入江はバックミラーでちらりと佐伯を見て言った。秘書だというのに、主人の心配もせず、その声はどこか楽しそうだった。 「これほど屈辱的なことはないな」 「意外と弁の立つ若者でしたね」  部屋には佐伯と相模の二人しかおらず、入江には下がらせていた。入江が相模との会話を知る由はない。 「聞いていたのか」 「これも秘書の務めです」  入江は盗聴していたことを、当然のことのように言う。現行法では立派な犯罪だ。 (相変わらず食えない男だ)  入江は自身の優秀な秘書であるが、雇い主は自身の父親だ。父親の指示で佐伯のお目付け役をしている。本家に入ってから長い時間を共にしているが、互いに分かり合うことはない。 「睨んでいた通り真白さんのお相手は相模圭一さんでしたね。うまいことバース性についてもごまかしていたし、相当頭が切れるみたいですね」  佐伯は真白に再会したあの日から、入江に真白の近辺調査をさせていた。  以前より個人的に捜索はしていたが、真白は一向に見つからなかった。そこに「キキ」という絶大なヒントを得たことで事態は大きく進展したのだ。  ずっと探していた相手が、芸能界という目立つところに居たことに佐伯は驚いた。 「相模さんは否定していましたが、彼は真白さんのことを好きなようですね。最後の捨て台詞なんて、まるで恋愛ドラマのワンシーンのようでしたよ」 『貴方にキキは絶対に渡さない』  最後に相模はそう言って部屋を後にした。 「あの男、ずっと真白のことをキキだと言っていたが……。どういう意味なんだ」 「さあ、それは私には計り知れないことですから」  佐伯は真白の話をしているのに、相模はキキと呼び続ける。時折真白という名前も彼の口から発せられているので、真白と言うのがキキの本名だと知っているのは間違いない。 『あの日僕が一緒に居たのは真白ではなくキキです』 『キキは真白だろう。調べて裏もとってある』 『いえ、そういう意味ではなくて』  わざわざ訂正した意味とはなんだ。「そういう意味でない」とは一体。  年下にいいように掌で転がされているような気がして、無性に腹が立つ。 「真白……」  佐伯は愛しい人の名をため息交じりに呼んだ。 「いい加減、諦めたらいかがですか。それにまだ一年も経っていないうちから他のオメガに手を出すなんて、会長がなんとおっしゃるか」  入江は抑揚のない声で言う。 「その話か、もう聞き飽きた。口うるさい男は嫌われるぞ」 「手放すことも、また愛の一つですよ」 「お前が愛だのを語るというのも滑稽だな。人を好きになったこともないくせに」  佐伯は忌々し気に吐き捨てた。 (自分はもっと理性的な人間だと思っていたが違うようだ)  相模とはもう少し冷静に話をする予定だった。あばよくば、真白が今自分のことをどう思っているのかも探りたかった。真白が少しでも自分に対しての未練があるなら、それに浸けこんででも手に入れたかった。だが真白のことになると自制心が利かない。 (真白……)  真白に対する気持ちは今も昔も何も変わってはいない。 自分たちは結ばれてこそはいないが、お互いを好きあっていた。誰よりも、何よりも。  外を眺めながら佐伯は記憶の中の真白を思い起こす。 『結城!』  いつでも記憶の中の彼は笑顔で自分の名を呼んでくれた。  大きな深い緑色の目で、懸命に好きという気持ちを伝えてくれる。 その目で見つめられるだけで、心は浮足立つ。……今は笑いかけるどころか、名前すら呼んでもくれなかったが。 (これが君を幸せにできなかった罰なのか)  指輪を取って、スーツの内ポケットにしまい込む。 佐伯はシートに凭れ、宙を仰いだ。

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