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9,激浪

 先日、たまたま仕事で利用したコーヒーチェーンで、ある青年と肩がぶつかった。 「すまない。考え事をしていた」  佐伯が謝罪すると、青年は「いえ、僕もよそ見していたので」と答えた。青年はそのまま歩き始めたが、通りざま、懐かしい匂いが鼻孔を突いた。 (この匂いは、……)  この九年間、ずっと佐伯は探し続けていた。 _愛しい真白の匂いを、忘れるわけがなかった。  咄嗟に腕を掴むと、青年は「離してください」とだけ言って、こちらを見ない。 「真白……?」  佐伯がそう言うと、やっと顔を上げる。深い緑色の目が佐伯を捉えた瞬間、あからさまに同様の色をみせた。顔の印象は記憶にある顔と違うものの、匂いや目は当時と変わっていない。 (この男は、真白だ) 「……いえ、人違いです」  真白は怯え切った顔をしていた。佐伯は何故真白がそんな表情をするのかわからない。 「君は真白だろう? 匂いでわかる」  そう伝えると、真白は「わかりっこない!」と声を荒らげた。 その声に店のなかがざわつき始める。立場上、あまり目立つことはしたくない。 「君を傷つけるつもりはない。話がしたい。ずっと探してたんだ、真白」 「僕は、……真白じゃ、ありません」  あくまでも真白は否定する。じゃあ一体、誰だというのか。 「失礼した。では名前を伺ってもいいだろうか」 「……答えたくありません」  それ以上真白は口を閉ざしたまま答えない。そうこうしているうちに、連れと思しき青年が近づいてきた。寄ってくるなり、真白を自身の方へ引き寄せる。 (ベータか)  何故オメガの真白がベータと一緒に居るのだろうか。青年の見た目は、アルファっぽくはあるが、フェロモンの類と思しき匂いは一切しなかった。 「キキ、どうしたの?」  青年は真白をキキと呼んだ。その声にも真白は反応せず、完全にフリーズ状態だ。青年も少し困っているように見えた。状況を伺っているのだろう。 「お兄さん、質の悪いナンパはダメだって」  青年はそう言いながら、真白の腰に手をまわして、身体をより密着させた。いかにもな関係性を佐伯に見せつける。不自然ながら真白もその青年に身を摺り寄せる。その姿を見て、佐伯は気が狂いそうだった。 (忌々しい。ベータのくせに真白に触るなんて)  佐伯は青年を一瞥したが、青年は怯むことなく言い放つ。 「そもそも俺らデート中だから、邪魔しないでくれない?」  青年はつけていたサングラスを外し、睨みをきかせてくる。鋭い視線に思わず手を放してしまった。その隙に青年は真白を連れて店外へ出てしまった。  あれからすぐ社に戻り、佐伯は入江に「キキ」と言う名前と容姿を伝え、調べてほしいと頼んだ。意外にもあっさりとその正体に行きつく。芸能関係に疎い佐伯、それに加えてキキはメディア露出を一切しない。そのせいでその存在に今までは気づきもしなかったが。  ネット上に出ている数少ない「キキ」の写真を佐伯は眺める。ずっと探していた存在が、芸能界という目立つ場所にずっといたことに佐伯は驚いた。「オメガ性」以外の情報は何一つとして公開されていない。写真の真白は、一見すると昔とは別人の印象は受けるが、目元の印象以外は髪色や服装がそう思わせるだけで、もともと持っている素質に変化はない。  それに、あの花のような匂いは絶対に真白のものに違いなかった。  より詳しい調査を入江に頼んだ。しかし、あまり収穫は得られない。加えられた情報は、所属事務所や住所、交友関係。交友関係についてはほとんどなかった。意図的に人との関わりを避けている。それに、過去を遡れないように、昔の形跡は一切残していないようだった。 その周到な人物が、最近は特定の人物と連れ立って出かけているらしい。たまに家にも招き入れる間柄のようだった。  調査書には、近日の真白のその様子を収めた写真も一緒に同封されていた。隣にいる男は、髪が黒だったり、茶色だったり、銀髪だったり、それに合わせて服装の種類も違う。どれも別の男のように見えるが、直感的に同一人物だと佐伯は思った。背格好がどれも「あの男」と似通っている。流石に印象は変えることが出来ても、身幅までは変えることはできない。 「それほど親密な間柄というわけか。この写真の男も芸能人か?」 「ええ、たぶん。残念ながらうまくかわされているので途中で撒かれてしまいます」 「というのは?」 「変装の類に違いないのですが、いつも帰宅途中に着替えてしまうので、我々も追うに追えないのです。匂いがあればまだどうにかなるのですが、ベータなので難しいのが現状ですね」  ただ、と言って、入江は記事の切り抜きを差し出した。 「相模圭一という俳優の、熱愛報道の切り抜きなのですが、芸能関係の知り合いが面白いことを言っていました」 「面白いとは?」 「報道で名前は出ていないが、相手の名前は『キキ』というモデルだったそうです」  記事の写真は、人を横抱きにしてホテルに入っていく相模と思しき人物が映っている。抱えられている方の顔にはモザイク処理が施され、誰かはわからない。見出しには『相手は美人カリスマモデル』というだけで、『キキ』もとい真白だと断定するには至らない。何らかの事情で、オフレコの情報として扱われているのだろうか。 「キキは、メディア露出は全くと言っていいほどしないみたいですからね。週刊誌も相模のスキャンダルをネタにしたいだけで、特に相手は誰でもいいようです」  入江が佐伯の考えに答えるように説明を加えた。だが、相模にはそれ以上に納得のいかない点がある。仮に、この熱愛報道の後も二人が交際を続けており、週刊誌の目を欺くため相模が変装をしている、というなら写真の男をはじめ、店であった青年が相模圭一と同一人物であると推測することはできる。しかし、自分たちが追っている青年はベータだ。記事には相模圭一はアルファだということが記されている。 (あの青年からは匂いがしなかった)  アルファの中でも多少なり匂いの薄いものはいる。だが、至近距離でも何も感じないということは、ベータということになる。 「『キキ』にお会いになりますか?」  入江が言った。佐伯の脳裏にはあの日の怯えた真白の様子が浮かぶ。今接触を図っても裏目に出る気がした。 「今はやめておこう。ご苦労だった」  佐伯が労いの言葉を掛けると入江は恐縮ですと答え、部屋を後にした。 (もう逃がさない)

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