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泡沫⑵
「僕たちの間には、言葉が足りなさ過ぎたんだと思う。何も言わなくても、一緒の気持ちだとずっと思っていた。わかっていてくれているとそう思っていた」
「それなら、今からでも遅くない。真白さえよければやり直したい。また一から」
佐伯の誘惑的なその言葉に、キキは首を振る。
残酷だが、あなたが好きな真白はもういないのだと、告げなければならない。
「それはできないんだ、佐伯」
「どうしてだ? 話し合って、誤解を解いて。俺にダメなところがあるなら改める。もう真白に寂しい思いはさせたくない」
「違うよ佐伯、やり直すことは一人じゃできないんだよ。一人じゃ、何も解決できない。先には進めない」
キキはずっと考えていた。佐伯とどう向き合うべきかを。
真白にとって、佐伯はそのすべてだった。
キキにとっての佐伯は、過去そのものであり、捨てなければならない存在だ。
「いい加減、僕たちは大人にならなきゃいけない」
佐伯は黙ったまま、何も言わない。
「あれから九年経った。あなたにとっては会えなかった九年間かもしれない。でも僕にとっては会わなかった九年間だ。あなたを思い出させるすべてが嫌で、違う自分になりたくて、顔を変えた。その悲しさが、あなたにはわかるの?」
「真白……」
「何度もあなたは僕のことを真白と呼ぶけど、僕は真白じゃなくてキキなんだ。上手くはいえないけど、あなたの好きな真白はもうどこにもいないんだ」
(そしてあなたのことを好きな真白も)
やっと思っていたことを伝えられ、肩の力が抜けた。
これで佐伯は納得してくれただろうか。
「僕は真白じゃない。あなたがどれだけ真白にとって嬉しい言葉を掛けてくれても、僕はそれに応えることはできない。だからもう、真白のことは忘れて欲しい。あなたには自由に生きて欲しい」
これが、佐伯に対するキキの正直な気持ちだった。
自分も、佐伯も、真白という存在に縛られていてはいけない。
「以前相模君と会った時、彼にこう言われたんだ」
佐伯がやっと口を開いた。会ったことは相模からは聞いていたが、なぜ今このタイミングで相模の名前が出るのだろうか。
「相模君は君を真白ではなく、キキだと言っていた。ずっとその言葉の意味を考えていた」
(相模はそんなことを)
その言葉を聞いて目頭が熱くなる。
相模の誠実さに胸が痛い。きっと佐伯にはそんなことを言ってもわからない。でも、きちんと改めていてくれたことが嬉しかった。
確かに今、ちゃんとキキとして自分は存在していると、そう思えるから。
「今なら、その意味がちゃんと分かるよ。君は必死に伝えてくれていたのに、わかろうともしないで悪かった」
佐伯は手をついて頭を下げる。慌ててキキは頭を上げるように言う。
だがなかなか佐伯は頭を上げようとしなかった。
「わかってくれたらいいんです。僕も、ちゃんと説明しないで意固地になって悪いことした。突然のことで動揺して、僕だってあなたに向き合うとしなかった」
「……キキ」
佐伯は躊躇いがちにキキの名を呼んだ。その響きは、とても心地よかった。
「やっと呼んでくれたね、結城」
「番の人とは、上手くやっているの?」
お互いに伝えたかった事を言い終え、予定よりも早く食事会は切り上げられた。時間があるなら少し庭に出ないか、と言われ店の敷地にある庭へ出ていた。
池で泳ぐ鯉を見ながら、キキは尋ねた。
あの後色々と仕事の話などをしたが、佐伯はその話題には触れなかった。
「……彼は去年亡くなったよ」
佐伯は悲し気な目でそう言った。
キキは知らなかったとはいえ、無遠慮にも尋ねてしまったことを詫びた。
「いいんだ。言っていなかったし。周りにも話す気になれなくて知っているのは秘書と家族だけだ」
「結婚はしなかったの? ……その、指輪をしていないから」
「結婚もしたし、式も挙げたさ。指輪をみるとどうしても思い出してしまうから、必要な時以外はしないようにしている。今も肌身離さずに持っているよ」
そう言って佐伯は胸のあたりに手を遣る。
「今でも大切に思っているんだね」
「ああ。でもそれ以上の感情を彼には注げなかった」
「そっか……」
「誓って言うが彼が亡くなったからと、真白のことを都合よく見ていたわけじゃない。ちゃんとずっと、俺のなかで真白は特別な存在だった」
「そう、その言葉が聞けて良かった。きっと真白も喜んでいると思う」
自分たちに必要なのは言葉だった。
時間でも、番という鎖でもない。それよりも簡単なものが、ずっと足りていなかった。
「その、キキは幸せか?」
「さあ、どうかな」
「さあって」
「でも大丈夫、相模がいてくれるから」
「君に好かれているなら、君は幸せ者だな」
ふと、佐伯がどこまで自分たちの仲を知っているのか気になった。熱愛報道が出たが、あの時は何もなかったし、今も恋人関係ではない。相模が佐伯にとんでもないことを言っていたらどうしようと、不安になる。
「相模とはなんでもないよ」
「でも彼には何でも話せるんだろう」
「まだ好きとは言えたことがないけどね。でもちゃんと伝えるつもり。もう言葉がない関係に振り回されるのはこりごりだから」
キキが笑いながらそう言うと、佐伯も笑ってくれた。
「そろそろ時間だな…」
佐伯が腕時計を見ながら言った。
一緒に店の門をくぐる。
少し離れたところに心配した様子の相模が見えた。
「彼と一緒に来ていたのか」
「近くで待ってて、って言ったのに。近すぎる」
近くに車を止めて待機してもらっていたはずなのに、どうやら待っていられなかったみたいだ。そんな忠犬のような相模の姿が愛おしい。
「君にそんな顔をさせる彼がうらやましいよ」
(そんな顔って?)
いったい自分はどんな顔をしていたのか知る術はなかった。
「話せてよかった」
相模はそう言って手を差し出した。別れの握手だ。
「さようなら、お元気で。あなたにはきっと僕以上にいい人が現れる」
「さようなら」
お互いに、また会おうとは、言わなかった。
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