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第4話

 ***  まるで、まどろみの中をふわりふわりと漂っているような、そんなおっとりした性格が凛奈の良いところだ。頼りないと言われることもあるが……。  しかし、今日は頭から角を生やして叱りたいことが何度もあった。  朝、今後どうするのか、という話を三人でし、カイルは朝ご飯でぽんぽこりんになった腹でふんぞり返りながら、 「ここにいながら、アレクシス様の大事なものを探せばいいではありませんか」  と、決まりきったような態度で言った。 「それでもいいのだが、せっかく地球に来たのだ。地球人の生活もしてみたい」 「えぇっ!」  凛奈とカイルは同時に声を上げた。  王子様が平民の振りをして仕事をするなんて……テレビドラマや小説の中でも、いいことが起こった例がない。  しかし、この家に彼らがいるのはかまわない。  久々に人が家にいる感覚や、昨夜の涙と面白い狸耳と尻尾を思い出して、凛奈はアレクシスやカイルと、上手くやっていけそうな気がしたからだ。  だからアレクシスの大事なもの……それがなんなのかはわからない……が見つかるまでうちにいていいよ、と何度も頷いた。 「そうか。それでは凛奈の優しい御心と言葉に甘えて、しばらく居候させてもらおう」 「はい!」  そう言って大きく頷いた時だった。  アレクは寝間着の浴衣の胸元からどんっと何かを取り出した。 「……なんですか?」  凛奈は首を捻った。  とても見慣れたもののはずなのに、よく理解できない。  目でも悪くなったかと、思わず目を擦ってしまう。  しかし、そこにあったのは一万円札の封の切られていない札束で、軽く数えても三つ以上はあった。 「これでは足りぬな。ではもっと出そう」  そう言ってアレクがさらに札束を出してきたので、凛奈は慌てて止めた。 「そ……そんな大金いりません! 庭の掃除をしてくれたり、家の中のことを手伝ってくれるだけで、お家賃は十分です!」 「しかし、それではアストラーダ王国の王子として情けない。せめてあと十束は受け取ってくれ」 「えぇぇぇぇぇっ!」  まるでネコ型ロボットのポケットのように、懐からどんどん札束が出てきて、しまいには十五束もの山が出来上がってしまった。 「……本当に、こんなにお金いりません……」  呟き、何度もお断りしたのだが、地球での家主に渡そうと思っていた。どうか受け取ってくれ! と熱く説得されてしまい、凛奈はどうすることもできなかった。 「では、こうしたらどうじゃ?」  国では偉い高僧だというカイルは、凛奈にこの金は自分のために使うのではなく、自分の将来の子どものために使ってやれ、というのだ。 「今生きている人間にはいろいろしがらみがある。しかし生まれてきたばかりの子ならしがらみはない。これはその子のための金じゃ。お前のものでもアレクシス様のものでもない。生まれてくる新しい命のものじゃ」 「カイル……」  そう言ってカルピスを一気に飲み干したカイルは、「二度寝するぞ~」と言って、客間に消えていった。 「一応高僧なだけあって、時にはいいことを言う」  アレクは感心していたが、本当にこんなに大変なものを預かっていいのだろうか。凛奈がまだ逡巡していると、「ここはカイルの意見を取り入れて、受け取ってくれ」とダメ押しされて、凛奈はその大金を箪笥の奥にしまったのだった。  ――しかし、これが穏やかな性格をした凛奈の逆鱗に触れたわけではない。  バッシャーン! カンカンッコロコロ……と派手な音を立てて花の入ったバケツがまた倒れた。  バケツが倒れるのは、これでもう四度目だ。  なぜならアレクシスが、仕事を手伝いたいと言い出したからだ。  現にアレクシスは今、水揚げしたばかりの薔薇の花のバケツを蹴って、花を全部売り物にできなくした。  カイルはアレクシスに無理やりやらされているので、先ほど来たお客と大喧嘩をして店を追い出してしまった。 「これからお世話になるんだ。自分が食べていくだけの金は自分で稼ぎたい」  そう言った彼の目は希望に輝いていた。  きっとこれまで働いたことがなかったのだろう。  朝食後にそう言い出したアレクシスを、カイルも凛奈も何度も止めた。怪我をするとか、初めてのことだからきっと失敗して傷つくことがある……など。  しかしアレクシスは凛奈の両手をぎゅっと握ると、 「頑張るから、働かせてくれ! 一度市民のように働いてみたかったんだ!」  と、熱く見つめてきた。 「うっ……」  なぜか凛奈は、アレクシスの榛色の瞳に逆らうことができなかった。  そして、彼の手の大きさにもドキッとした。  剣だこがたくさんできた手は、彼がただの飾り物の王子でないことを表していた。  父親も剣道を嗜んでいたので、本当に戦う男の手がどんなものか、凛奈は知っていたのだ。  強くて、守る者を持つ手……。  その熱い手にも絆されてしまったせいか、凛奈は「わ、わかったよ。仕方ないな……」と頬を染めながら言ってしまったのだ。「えーっ!」と驚くカイルの隣で。  どうやら異世界で働くことは、今回ミッションの中には含まれていなかったらしいが、凛奈が絆されて許してしまったせいで、今、大変なことになっている。  当初は、父の物だった白いシャツをピシッと着こなし、黒いズボンにカフェエプロンを腰に締めた彼はモデルのようにかっこよかった。頬を染め、思わず凛奈がかっこいー……と呟いてしまうほどに。  しかしよかったのはここまでだった。  花が大好きだという彼に、軽トラックから今朝市場で仕入れてきた花を下ろすのを手伝ってもらったのだが、文化の違いからか、彼はバケツを脇に抱えたのだ。まるで樽のように。 「ちょっと……アレク!」  驚いて軽トラの荷台から飛び降り、花が入ったバケツの持ち方を教えた。  すると彼は「すまん」と言ってすぐに直してくれたが、今日のお買い得品にしようと思っていたスイセンは、すべて床にぶちまけられてしまい、ダメになってしまった。  商品には少しでも傷がついてはダメなのだ。もう売り物にならない。  彼も花が入ったバケツは初めて見たので、中に水が入っているとは思わなかったし、横に持った方が効率がいいと思ったそうだ。  けれども花は頭が重い。  アレクシスの考え方はちょっと……かなり残念だった。  それから生花店の一番の重労働と言われる、『水揚げ』という作業がある。新鮮な水の中で、切り花の切り口を再びハサミやナイフで切り、一気に新鮮な水を吸い上げさせる作業だ。  これは難しいかなと思い、欧風インテリアをした店内の椅子に座って、自分の手元を見ているように言ったのだが、ナイフを見た途端、アレクシスの血が騒いだのか、自分もどうしても、水揚げをやってみたいと言い出した。  指を切ったりするかもしれないから、この作業は危ないよと言ったのに、アレクシスは猪突猛進なところがあるのか、ざぶんと素手を水の中に突っ込むと、自前のナイフでガーベラの花を切り出した。そして、 「いってー」  見事に人差し指を切り、それに驚いたカイルが大騒ぎをして走り回り、たまたまやってきたお客に悪態をついて大喧嘩になり、凛奈は、結構深く切ってしまったアレクシスの傷の手当てをしながらカイルを叱り飛ばし、お客に頭を下げ、さんざんな午前中が過ぎていった。 「――ねぇ、アレク。水揚げの作業はとても危険なんだ。僕たちプロだって、軍手をして、その上からゴム手袋をして、切り口もあまり鋭くないナイフをあえて使用するんだ。花の茎が切れるちょうどいい研ぎ具合のものをね。だから君が持っているような、人も殺せそうなほど鋭いナイフは素手で使っちゃいけないんだよ」  幸いアレクシスの出血は止まり、病院へ行くほどの怪我ではなかったことに安堵していると、しょんぼりと椅子に座って手当てを受けていたアレクシスに、凛奈は大事なことだから……と、もう一度懇々と教えていく。  すると彼は、不貞腐れるかなと思ったが、一国の王子としてはとても素直に話を聞き、何度も「仕事の邪魔をしてすまなかった」と言った。 「大丈夫だよ。それじゃあ、アレクにはもっと違うお仕事をしてもらおうかな?」  ここで「もう仕事はさせない!」と叱り飛ばしたら、せっかくの彼の「やってみたい!」という気持ちを潰してしまいそうで、それもなんだか可哀そうになってきた。  だから凛奈は、プレゼント用のセロファンにホチキスで留めるリボン作りをお願いした。普通のリボン結びよりちょっと難しい飾り結びだ。  しかし、王子であるアレクシスは蝶結びしかしたことがなく、この作業もできなかった。  けれどアレクシスは諦めなかった。  店内のハンモックで昼寝していたカイルを起こして、祭事で飾り結びを行う彼から、華やかな蝶結びを教えてもらい出したのだ。  当のカイルは、また「一国の王子がこのようなご苦労を……これもすべて、アレクシス様に仕事をさせた凛奈のせいでございます!」と怒っていたけれど、店の隅にある作業台で、アレクシスは必死に何度も飾り結びの作り方を繰り返していた。  この後、店はいつもの平穏さを取り戻して閉店したのだが、それでもアレクシスは飾り結びの練習をしていた。 「ご飯だよ、アレク」 「あぁ、今行く」  そうは言ったけれど、彼の意識は練習用に与えた茶色いリボンに向けられていて、こちらを見ようともしない。  しばらくして食事をかき込むようにして平らげたアレクシスは、部屋着の甚平姿に着替えると、また店の作業台へと戻ってしまった。  そして……。 「できた!」  夜の十時も過ぎた頃。アレクシスはまるで少年のような顔で凛奈のもとへやってきた。 「見てくれ、凛奈! これなら商品の飾りになるレベルだろう?」 「本当だ! すごいよアレク、一日でここまでできるようになったの!?」  綺麗な蝶結びを見て凛奈が笑顔でアレクシスを見上げると、彼は畳の間のちゃぶ台に座っていた凛奈を抱き上げた。  その時、凛奈の心臓がドキンと大きく跳ね上がった。  宝石のようにキラキラと輝くアレクシスの瞳を見ると、そのドキドキはもっと大きくなった。 「やったぞ! これで俺にもできる仕事ができたな!」 「うん。そうだね! 明日からアレクに、たくさんリボンを結んでもらわなくちゃ」  まるで少年のように微笑んだアレクシスに、凛奈も微笑み返した。そしてアレクシスの笑顔に、いつまでも胸のときめきが治まらなかった。  まるで恋をしたようだと、凛奈は思った。  いや、何事にも一生懸命で努力家なアレクシスに、恋をしてしまったのは明確だった。  これは凛奈の初恋だった。

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