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第663話

会社のエントランスを出た瞬間、後ろから声をかけられる。 「先輩っ!」 「……っ」 大好きな声。 今、一番聞きたくない声。 「今日、帰ってきてくれますか…?」 「…………無理…。」 「喧嘩しても家には帰るって、同棲始める時に決めたじゃないですか…。」 「…………ごめん。」 「どうして?俺に会いたくない?話したくない?」 城崎は悲しそうな顔でそう尋ねる。 城崎は知らないんだ。 俺が浮気に気付いてること。 ホテルに入ったのを見たのも、家で那瑠くんとセックスしてたのも、俺が知らないと思ってるんだ。 だから、そんな何も知りませんよって顔できるんだ。 これは喧嘩じゃない。 ただの痴話喧嘩だったら、どれだけ救われただろうか。 「先輩に話したいことあるんです。今少しだけでも時間もらえませんか?」 話したいことって、別れ話…? 嫌だ。聞きたくない。 「無理…っ、ごめん…。」 震える体に鞭打って、城崎から逃げるように走った。 脚がもつれて転びそうになった瞬間、後ろからぐいっと引かれて重心が前から後ろへ移動する。 引かれるままに倒れ込み、抱きしめられた温かさに目が潤む。 「……っ、……捕まえた…」 俺を優しく包む身体。 走ってきて上下する肩。 大好きな匂いと、大好きな声。 ここ数日ずっと欲しかった温もり。 「……離して…っ」 本当は離してほしくない。 このまま抱きしめていてほしい。 でも、あの光景が頭から離れない。 城崎に利用されてるんじゃないかって、本命はあの子なんじゃないかって、心のどこかで思ってる。 「嫌だ。離したら、話聞いてくれないでしょ?」 「離さなくても聞かない…。」 「先輩…、帰ってきて…。」 「嫌だ。帰らない…っ」 「お願い…。先輩がいないと俺、生きていけない…。」 城崎、狡いよ。 城崎は俺以外にもいるんじゃん。 俺は城崎しかいないよ。 眠れない夜、いっぱい考えてみたけど、やっぱり城崎しか無理なんだ。 ツラくても、城崎が隠し通してくれたら、もしかしたら幸せなんじゃないかって。 そんなこと思っちゃうくらい、おまえとしか考えられないのに…。 「……っは、はぁっ…はっ…」 「先輩…っ?」 「…く…るし…ぃ…っ、はっ…、助け…て…っ」 また呼吸が乱れて、息が吸えなくなる。 苦しい。怖い。助けて。 ボロボロ涙をこぼしていると、城崎は人気のないところに俺を移動させ、ゆっくりと背中をさすってくれた。 「大丈夫…。ごめんね、怖かったですよね…。ごめんなさい…。」 「ふっ…ぅう…」 「大丈夫、大丈夫…。」 「……はっ…、はぁ…っ、ふぅ…」 「そう…。上手…。」 抱きしめられて、一定のリズムでぽんぽんと優しく叩かれる。 少しずつ息が吸えるようになってきて、息苦しいのがマシになった。

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