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第916話
「じゃあそろそろ帰る。また明日な。」
「忘れ物ないですか?」
「焦り過ぎてスマホと財布以外何も持ってきてねーよ。」
「鍵は…?」
「あ。忘れてた。」
言われてみれば、家の鍵をかけた記憶がない。
そもそも鍵を持ってきてすらないし。
だってあの時は気が動転してたんだ、仕方ないだろ。
許してくれるかと思ったのに、夏月はギュッと俺を抱き寄せる。
「今夜ここに泊まろ?」
「いや、何で?帰るよ。」
「だって家に空き巣犯いたらどうするんですかっ?!俺と一緒に帰ろ?ね?」
「大丈夫だって。危ないと思ったら、ちゃんと自分の安全を優先するから。」
「本当?人の気配したら逃げてね?」
「うん。わかった。」
こいつ俺のことになると、本当に心配性なんだよな…。
俺も男だし、もう30だし、腕っぷしだって夏月と大差ないはずなのに。
「綾人さん…」
「ん、何?」
「あと一回だけキスしたい。」
まっすぐ見つめられてドキドキする。
でももう消灯って言われたし、これ以上居座ったら看護師が…。
「綾人さん。」
「わっ…!……ん…んん…」
「今日寂しくて眠れないかも。帰って寝る準備できたら電話してくれますか?」
「電話ダメなんじゃ…」
「個室だしいいでしょ。待ってますね。」
夏月は最後に触れるだけのキスをして唇を離した。
名残惜しいけど夏月に手を振って病室を出る。
ナースステーションの前を通ると、夜勤であろう数人の看護師が話していた。
きゃあきゃあと盛り上がっているから、いやでも耳に入ってしまう。
看護師の話の内容は、今日緊急で運ばれてきた患者が芸能人みたいだった…って感じの。
それって夏月のことだよな…?
嫌だな…。
夏月だって辛い時に看護師に優しくされたら……。
「あー、だめだめ…。夏月は俺だけなんだから…。」
すぐに不安になってしまう自分に大丈夫だと言い聞かせ、病院を後にする。
家に帰り、室内のチェックをする。
幸いにも空き巣などは入っておらず、家を出た時のままだった。
おかずを冷蔵庫に入れ、風呂に入る。
ベッドに入り、夏月に電話をかけてみた。
『もしもし。もう寝る準備できました?』
「早ぇよ。」
『待ってたんです。綾人さんの声聞いたら眠れそう。』
ワンコールで出た上に、嬉しいことばかり言ってくれて、さっきまでの不安がスッと消える。
夏月の声聞いてたら安心する…。
「看護師さんがさ、おまえの噂してたよ。芸能人みたいだって。」
『はは…。なんか巡視の回数が多い気がしてました。一般人なのにね。』
「巡視って何?部屋入ってくんの?」
『まぁ、はい。患者の状態を確認するために回らなきゃいけないみたい。でもちらっと覗いてすぐ出ていくから。』
「ふーん…。」
面白くない…。
部屋入ってくるとか…。
夜這いされたらどうするんだよ…。
『綾人さん?変なこと考えてない?』
「だって…。」
『エロ漫画みたいなこと起きないから。遠目に俺が呼吸してるか確認してすぐ出ていくだけですよ?だから安心して。』
「うん…。」
『好きだよ、綾人さん。』
不安でいっぱいだったのに、夏月の声を聞いてたら、いつの間にか眠ってしまっていた。
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