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3話  一人立つ

 目の前に開かれる雄大な山々に、牛若の瞳は陽の光を取り込んだようにきらきらと輝く。  牛若とは幼名で、鞍馬寺に預けられてからは稚児名の遮那王(しゃなおう)と名付けられた。  鞍馬寺から見える幻想的な景色は、幼い身で母と引き離された牛若の心を、幾分癒やし続けている。 こうして高い位置から山々や、果ては下界を覗くと、自分はまるで山界の主にでもなったかのような気分に牛若はなった。  生まれた年に父義朝が討たれ、母の常盤御前はその後二人の兄と乳飲み子であった牛若を連れ、平家の総大将であった平清盛に下った。  清盛によって、常盤と子の三人は命を救われ、兄二人はまもなく仏門に入れられた。赤子であった牛若は、清盛の庇護のもと、母常盤と共に市中に館を与えられ、そこで育った。  母と清盛の間には妹が一人生まれたが、それもまたすぐに平家方へと連れ去られた。母の元に通う清盛の顔は敵の顔ではなく、牛若にむける眼差しも、慈愛を感じる柔らかいものだったと記憶する。  幼き日の牛若は、記憶にない父の姿を清盛に重ねて見ていた。  その清盛によって、十一の時に鞍馬寺へ入れられた。常盤もまた、清盛により一条長成の元へ嫁がされた。  敗戦の将の忘れ形見にしては、優遇されていたではないかと、今にして思う。反乱の芽は、命を奪われるのが常の時代なのだ。  だから牛若は恨んではいない。父の事も、母の事も、清盛の事も。  恨んではいないが、一年経ち十二の歳になった今、自分の胸にかつて無かった思いが芽吹き始めているのを感じていた。己は一体何処へ行きたいのだろうと。    夜中、牛若はこっそり寺を抜け出す。鞍馬山の奥、僧正が谷(そうじょうがたに)へ向かいひた走る。月明かりのない夜は木の根に躓き、転がり落ちる事もある。  しばらく走ると、一つの影が佇んでいた。牛若は息を切らしながら、声をあげる。 「僧正坊(そうじょうぼう)様!」  その影は振り向くと、待っていたとばかりに微笑む。 「来たか、遮那王」  そう言うなり、木刀を投げて寄越した。 「さあ、打ち込んで参れ。私を待たせた罰じゃ。早々に音を上げても、休めると思うなよ」  牛若は、血豆だらけの手の平に力を込め木刀を握り込むと、僧正坊目がけて一気に踏み込む。 一心不乱の剣筋を、僧正坊はいとも容易くいなしていく。 「どうした、遮那王。もう息が乱れたのか。そんなにも僧の修行は身にしみるか?」  僧正坊はからかうように牛若へと投げかける。 「僧侶の修行など、あなた様との修行に比べれば容易い事でございます!今一度!」  言うなり牛若はさらに深く打ち込んで行く。  僧正坊には、鞍馬寺に預けられて暫く経った頃から武芸の手ほどきを受けている。鞍馬山の奥に位置する、僧正が谷に居を構えていると聞くその男は、なんともまあ人間離れしていると感じる時がある。 剣術は、牛若が今だ一度たりとも一本も取れずにいるし、戦略や兵法を教われば、その知識や視野の広さに驚かされてばかりである。  人の世の(ことわり)を全て知り尽くしているのではと何度も思った。  そして気付く。この男に嘘や虚栄は通じぬのだと。 「遮那王、そなた出家しても尚、このような真似を続ける訳ではあるまいな」  片手で木刀を操りながら、僧正坊は軽やかに遮那王の一撃一撃を躱し、弾いて行く。 「私は、出家などしたくない!世を知らぬまま、人を知らぬまま、俗世から離れて仏のみに仕えるな人生など、考えられぬ!」  仏門に入った者は、僧になるべく出家をするのが常である。牛若の兄二人も同様、出家して僧侶として生きている。  だが、牛若は自分が出家し僧侶として生きて行く姿を想像できないでいる。   「ほう···」  牛若の叫びにも似た心の内を聞き、僧正坊は自身の木刀を下ろす。 「遮那王。そなた僧にはなりたくないか」 「なりたくない···!」 「それは、清盛入道に弓を引くと言うことか?」  牛若は息を詰まらせた。僧正坊に言われた言葉は、そのような考えを持ち合わせていなかった牛若にとって、青天の霹靂であった。  だが、回転の早い頭はすぐに理解する。  "そういう事なのだ" と。  僧正坊は、牛若が何を言いたいのかわかっていた。わかった上でさらに問う。 「出家のみが、そなたの命が助かるただ一つの道ぞ。そなた程の賢い子供がわからぬはずもないであろう。何故(なにゆえ)、そなたは剣をとった。私に師事をしたいと申し出た時、そなた申したな。己が何者なのか知りたいと」  僧正坊は知りたいと思ったのだ。目の前にいる子供がなぜ、稚児という身でありながら、武を求めるのかを。 「父の敵討ちでないのは、見ればわかる。だが、そなたが源氏の血を引く御曹司である事に変わりないのだ。そなたが源氏であり、出家し平家に仇なす者でないと証明できぬ限り、平家に命を狙われるは必定」  遮那王の剣は、常に迷いがあった。始めは鬱屈を晴らそうとしているだけなのかと思ったが、日を追う毎にそれは大きくなるばかりなのを僧正坊は感じていた。  この子供は答えを探している。 「遮那王。そなた、武士(もののふ)になりたいのか?」  牛若、いや遮那王は己の目の前が途端に開かれ、光が散りゆく様を見た。いや感じた。  遮那王はただ自分が、自分の置かれている境遇が窮屈に感じられて仕方なかった。  自分が何なのかわからない息苦しさ。夢を持つ事も、叶える事も取り上げられ、余生を仏に捧げ、静かに尽きる事が決まっている己の人生。   「私は···立ち上がりたい。己一人の足で地に立ち、この目で、この国の行く末を見てみとうこざいます」  僧正坊は天を仰ぎ見たい気分に駆られた。  運命という言葉があるとすれば、目の前の子供は、まさしくその中心にいるのだと。         

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