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5話 生まれゆく情
遮那王は、その夜なかなか寝つけなかった。夕暮れ時に現れた、兄と名乗る男。
自分が知り得る兄弟は、上の二人の兄のみで、それさえも記憶はなく、顔も知れない存在であった。
遮那王は、まだ母と京の都に住んでいた頃、母からは父や源氏の事について、あまり聞いていなかった。平家の監視下であった事もあり、常盤が意図的に口を噤んでいたのだろう。
しかし、遮那王が成長するにつれ、父の事や、自分の身の周りの事情について疑問を投げかけるようになった。
そのうちに、常盤も隠し続ける事に罪悪感を感じるようになって行き、ぽつぽつと話し始めたのだ。
そして、鞍馬寺へ預けられる日に、道中馬に揺られながら、常盤は今までの経緯を正直に話したのだ。
父義朝の事、清盛の事、二人の兄の事。常盤からすれば、仏門に入れば、牛若の身の安全は保証されると思い立ったが故の告白であった。
だがその常盤も、父の他の子供達の事については、教えてはくれなかったのだ。
「それはそうであろうな···母上」
ぽつりと自分の口から零れ出た声は、夜の暗闇の中でいやに大きく耳に届く。
平家の世の今、源氏は謀反人に他ならない。そしてまたその一族も。いたずらに希望を持たせ、あまつさえそれが報復心に繋がる事を、常盤は恐れたのだ。自分の身を案じるが故の母の愛情。
"兄"は、日が暮れるので明日また来ると言って帰っていった。
名は、佐殿 と言うらしい。共にいた男にもそう呼ばれていた。
「兄上···私の。随分と歳が上なのだな」
不思議な高揚感が、遮那王を包んでいた。自分は一人ではないのだと思うと、ひどく安心感に包まれ、深い眠りへと誘われた。
翌日、遮那王は、"兄"が来ると行った刻に、昨日の石階段の所へ向かった。
見ればすでに、兄と昨日もいた連れと思わしき男が待っていた。
遮那王に気づいた兄は、すぐに駆け登って来てくれた。
「牛若!」
「お待たせしてしまいましたか?」
「いや、こちらが早く来てしまった。気がはやってしまってな。もしかして、抜け出させてしまったか?後で叱られたりしなければ良いが」
「いえ、今は特にやる事もなく」
そう答えると兄は、良かったと微笑んだ。
「少し歩こう。何処かゆっくり話せる場所はあるか?」
「では、私についてきて下さい。少し下ると、小さな川があるのです。そこなら静かですし、陽当りも良いので暖かいです」
遮那王もいつの間にか笑顔になっていた。
「そうか、ではそこへ行こう。あ、この者は与吉と言ってな、商いをしておる。この鞍馬まで旅の共をしてもらった。純朴な者故、安心して良いぞ」
「与吉殿ですね。牛若と言います。寺での稚児名は遮那王です。どちらの名で呼んでいただいても構いません」
与吉も屈託のない遮那王の態度に、力が抜けたのか、いつもの調子に戻っていた。
「そうですか。なら、私も牛若様と」
緩やかな斜面を下れば、先程言っていた川が見えてくる。牛若にとって鞍馬山は庭みたいなもので、修行や稽古の間に走り回ったり、秋はアケビをとり、野兎を見つければ追いかけたりと、遊び場でもあった。
川辺りに倒れた木があり、二人はそこへ腰を掛けた。与吉は、兄弟水入らずを邪魔したくはないと、一人離れた位置にて立っている。
「さて、昨日は突然押し掛けてすまなかったな。兄と言われても、すぐさま信じられなかったであろう。しかも私は名を名乗っていなかった。無礼であったな、許してほしい」
「いえ、私は自分に他にも兄弟がいる事を知りませんでした。なので、少し驚いてしまいました。佐殿と申されるのですか?与吉殿もそう呼んでおりました」
遮那王は素直に答えた。
「ははは、確かに。伊豆ではそう呼ばれておるな」
「伊豆?」
「伊豆だ。今は伊豆の地にて、日がな一日馬に乗ったり、海を見て暮らしておる」
「馬でございますか?私は海も見た事がございません!向こう側が見えないほど大きいと聞きます!口に含むと塩辛いというのは本当ですか?」
遮那王は目を輝かせ、身を乗り出して矢継ぎ早に問うた。そんな遮那王に兄は笑いながら、本当だとも、と答えてくれた。
「私は、源頼朝 と申す。そなたの父、源義朝の嫡男で、そなたの兄にあたる」
遮那王は、鳥肌が立った。それは歓喜。自分と父を同じくする、自分の兄。血の繋がった兄弟というのものを、初めて間近で感じた遮那王は、何とも言えない幸福に満ちていた。
「兄上···」
「ああ、兄だ。これが系譜だ。父と都を落ち延びる際、持っているようにと託された」
頼朝は、着物の衿 の中から、巻物を取り出し開いた。
「父上に?」
「そうだ。父義朝の子は我ら以外にも大勢おる。皆今は散り散りだがな。顔を知らぬ者も多い」
遮那王は兄に渡された系譜に見入った。はじめて知る己の血統。
「見ろ、牛若は九番目の子じゃ。私の末弟にあたる」
「弟···私が兄上の弟にございますか?」
遮那王に嬉しそうな笑みを向けられて、頼朝も優しく微笑む。
九番目の弟が鞍馬寺へ入ったと、監視役の北条時政から流れ聞いた。記憶を探り、あの常盤御前の末子か、頼朝は行き着いた。
十三の時に平治の乱 が起こり、父について出陣、従軍した。
しかし平家方の勢いは凄まじく、父と共に都を落ち延びた。その後平家の追っ手に追われ、父達とはぐれた所、近江国で捕らえられた。
六波羅 に送られ、処刑を当然視されていた頼朝だが、平清盛の継母であった池禅尼 の嘆願もあり、清盛により恩赦が下った。
そして、齢十四で伊豆へと流罪になった。
伊豆での生活は、監視付きとは言え、それなりに自由のきく身であったのが何よりの救いであった。
従者もつけられ、日がな、書を読んだり、経をあげたりと過ごした。
京で権勢を振るう平家の事も、情勢も耳に入って来る。
“平家であらずんば人であらず”。
ふざけた事をと、静かに胸の内に炎が燻り始めた。聞くに、都での平家の振る舞いは、民や朝廷を見下した、実に横暴極まりない物であった。
父は配下の裏切りに遭い殺され、自分は流罪の身。残った源氏一門も国中へ散り散りになっていた。
流罪中、密かに政 の勉強をした。そして一人離れた伊豆にて、現在の政治や平家の軍の流れを静観し、洞察力を養った。
いずれは国を、と。
最中、耳に入った末弟の仏門入門。なぜ、この末弟だけ気にかかるのか。頼朝はすぐさま思い当たる。
母親の常盤御前だった。一度だけ目にした事がある、父の寵愛する側室である。都一の美女と噂通りの、輝かんばかりの美しい容姿と、淑やかな立ち姿に、子供ながらに見とれた。
腕には赤子を抱いていた。都を落ち延びる直前だった。父が愛おしそうに常盤と赤子に触れていたのを鮮明に覚えている。
微かな嫉妬心が、胸をくすぐる。父は自分にあのように接した事はあっただろうか?
頼朝の母は正室だった。家柄が良かったため、頼朝が嫡男へと立てられ優遇された。
情をもらった事はあっただろうか。今となっては、流罪前の記憶は夢幻 とさえ思えてならない。
そんな父が牛若と常盤に見せた、ただの夫と父親の顔を、頼朝の物覚えの良い頭は今だに忘れられずにいた。
全国に散らばった源氏の者達にも、いずれは接触し繋がりを密かに持とうと考えていた頼朝は、まず、末弟の牛若への目を向けた。
上二人はすでに出家してしまっているが、寺に入ったばかりの稚児ならば、まだ間に合う。
いずれ来たる決起の時、少しでも自分に忠誠を誓う者が、頼朝は欲しかった。
そのためには、少しでも年若いほうが手綱を取りやすい。
頼朝が信頼する数少ない側近の一人、安達盛長 に身代わりになってもらい、与吉とその父の協力で商人に扮し、伊豆を出た。
都へは入らず、山道を移動した。そうして苦労して辿り着いた鞍馬寺にて久々に相まみえた弟は、十ニにしてはひどく幼く見えた。
いつか見た、常盤にそっくりの美しい容姿をしていた。
聞けば、他の兄弟がいる事は聞いておらず知らなかったそうだ。
接してみてわかったが、幼い容姿をしているが、賢く、実に素直でしっかりとした少年だった。
海の話をした時は、幼子 のように見え、思わず笑ってしまった。
牛若はすでに、自分を兄として認めているようだった。
邪心の無い純粋な牛若の心を向けられ、頼朝は自分の中で何かが急速に変わっていく気がした。
そしてそれが、かつて経験した事のない心地良さである事を、頼朝は全身で思えてならなかった。
置き去りにされた在りし日の小さな嫉妬は、形を変えて情へと生まれ変わった。
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