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6話 拠り所
暫く兄弟は、話に花を咲かせた。
頼朝は、ちらりと見た遮那王の手の平に、血豆ができているのに気がついた。
「牛若、その手の平はどうした。血豆と、これは剣だこではないか?何故こんなものが···。それに手もとても荒れているな。まさか寺で辛い仕事を押し付けられているのではあるまいな?」
遮那王は一瞬しまったと思ったが、相手は兄であるし、何より隠し事や嘘をつくのをためらった。
「押し付けられてはいません。水仕事や薪割りなどは私だけでなく、上の僧達も皆行っております。ご安心下さい」
頼朝は目に見えてホッとしたようだった。遮那王はそんな兄の様子に、内心嬉しくなった。
「実は、鞍馬山の奥に住まう、僧正坊なるお方に武術の手ほどきを受けております」
「武術?何故そのような事を」
「私は鞍馬へ来てから、ずっと何かに迷っておりました。毎日母が恋しくて、寂しさのあまり毎晩泣きながら眠りについて。これの繰り返しだったのです」
頼朝は、黙って遮那王の話に耳を傾けた。兄の眼差しを受けながら、遮那王は続ける。
「自分がわからなかった。ただ、このまま出家し僧になるのだと思うと、堪らなく耐え難い気持ちになり、果の地まで走り出したくなった。武術に打ち込んでいるとそんな気持ちが、幾分晴れるような気がし、自分を開放できるような気がするのです」
「確かに、武術とはそういう物だ。私も鬱屈した気持ちになると、剣を振るい、己を見つめ直す」
「兄上も?」
「ああ。して、その僧正坊とは何者だ?」
「私もあまり詳しい事はわからないのです。寺の僧達から、鞍馬山には天狗が住んでると聞き及びまして、私はもしかすると、僧正坊様がその天狗なのではと思っているのです」
頼朝は、またしても遮那王が童のような事を言うので、微笑ましさのあまり、声に出して笑った。
「天狗、そうか天狗か!」
「はい、天狗です!宙を飛んだり、いつの間にか木の上に居たりするのです。薬草などにも詳しくて、擦り傷などを負うと、見た事もない葉で薬を作ってくれます。私は不思議で仕方ないのです!都の事もたくさん知っているのですよ」
「ははは!では、牛若。なぜ僧になりたくないのだ?」
遮那王はしっかりした声で、はっきり答えた。
「夢を描きたいのです。色々なものを見たい。国中を旅して見てみたいし、色々な人達とも会ってみたい。私は己の足で、揺るがぬ大地を踏みしめたいのです!」
頼朝はすぐに言葉が出なかった。幼く見える目の前の子供は、こんなにも確固たる自分という物を持っているのだと。
そしてそれを叶えようとしている。小さな体で全身を希望の炎で燃えたぎらせて。
この弟は、ずっと孤独だったはずだ。父の顔も、兄弟の顔も知らず、今日まで。
頼朝は自分を惨めだと思ってきた。流人にまで身を落とし、何かを成し遂げるわけでもなく、伊豆の小島にていたずらに歳を重ねゆかなければならない境遇を。
だが、この子もそうなのだ。自分と同じく、迷い足掻き、それでも前を、未来 を見ている。
「牛若。ならば僧になどならずとも良い。この後 は私が共におる。お前は一人ではない」
「···え?」
「今すぐという訳にはいかぬが、必ずお前を呼び寄せる。兄弟共に暮らすのだ。海の見える所に居を構え、昼は釣りをし、夜は月を見ながら語らうのだ」
遮那王は、大きい瞳をさらに大きくした。遮那王の描いた大きな夢の中の一つ。兄が手を差し伸べてくれた。
「本当にございますか?本当にそのような事が叶いますか?」
「ああ叶う。叶えてみせる。私達はもう、一人ではない。私には牛若が、牛若にはこの兄がいる。離れていても心は一つだ」
遮那王の大きな目から涙が零れた。ずっと欲しかったものが手に入った。自分と繋がりのある存在。遮那王は広い世界と未来を見た。
そろそろ日も傾きはじめ、風がだんだんと冷たさを含んできた。
「さて、名残惜しいがそろそろ行かねば」
立ち上がる頼朝を、遮那王は寂しそうな顔を隠そうともせず見上げて来た。
その姿に愛おしさを感じながら、頼朝は小さな頭に手を置いた。
「今晩には、京を発つ事になっている。流人の身の上なのでな、伊豆に居ない事が知れると不味いのだ」
「流人?兄上、大丈夫なのですか!?」
「大丈夫だ、心配するな。先程も申した通り、生活は割と安穏としているのだ。それよりもお前のほうが心配だ。私などは、怠けておれば監視の目を欺けるが、お前はそういう訳にもいくまい。平家の目は恐らく、鞍馬寺にまで及んでいると見たほうが良い」
「大丈夫です。自分の身は守れます。寺の者も皆、私の事情は存じております。いざという時は、寺に籠もり身を隠せば、皆庇ってくれるでしょう。兄上こそ、道中大丈夫でしょうか?もし見つかりでもしたら···」
遮那王が顔を曇らせると、いつの間にか頼朝の隣に戻っていた与吉が、間延びしたように口を開いた。
「大丈夫ですよ、牛若様。佐殿と私は商人 が使う宿に泊まりながら旅を続けて来たんです。そんな庶民の入り乱れる所に、平家の公達は居やしませんよ。それにこの佐殿の出で立ち。どう見ても源氏の御曹司には見えますまい」
与吉の緊張感のない声は、不思議と遮那王を安心させた。
「その通りだ。与吉もおる故、安心しろ。そうだ、渡し損ねる所だった」
そう言うと、頼朝はおもむろに風呂敷から小さな巾着袋を取り出し、遮那王に渡した。
「飴玉じゃ。お前に渡そうと、ここに来る前に与吉に買って来てもらった。見つからぬよう、後でこっそり食べるのだぞ?」
「え、良いのですか?嬉しいです!ありがとうございます、兄上!」
遮那王は袋を、両手で大事そうに包み込んだ。頼朝はそんな遮那王がいじらしく思えて仕方がなかった。
「年が明けたら、また会いに来よう。文も書く故、この与吉が都へ商いに来る時に届けてもらうようにする。それまで息災にしておるのだぞ?兄との約束だ」
「はい、約束です。兄上」
頼朝は満足そうに微笑み、遮那王の頭を撫でた。
母と引き離されてこの方、そんな事をしてくれる人など当然いなかった遮那王にとって、頼朝は兄であり、その姿は父にも見えた。
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