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7話 安らぎの日々
年が明け、春に差し掛かろうかと言う季節。
遮那王は十三になっていた。
梅の香りが鼻をくすぐると、遮那王は春の訪れを感じて嬉しくなる。
もうじき桜も色づくだろうな、と考えると、胸が踊るようだ。
それは頼朝の存在も大きかった。昨年、突然再開した遮那王の実の兄。共に語らえた時は短かったが、その間にも、頼朝は遮那王をとても慈しんでくれた。
遮那王は、頼朝が自分を牛若と呼ぶのを嬉しく思った。今だ幼名のままの名だが、“鞍馬寺の遮那王”ではない自分を見てくれていると思ったのだ。
あれから今まで、与吉が商いで都に来た際、頼朝の文を鞍馬寺へ届けてくれていた。
伊豆の海の話、馬の子が生まれた話、そんな他愛のない内容が、今の遮那王の心の支えにもなっていた。
与吉もまた、来るたびに珍しい菓子などを文と一緒に遮那王へ渡す。
頼朝に頼まれているのだろう。遮那王はそれも楽しみであった。
遮那王もまた、返事の文を与吉に渡す。
ここ数ヶ月、与吉ともとても打ち解けていた。
この間は与吉が、足のマメが潰れて痛くて敵わんと言っていたので、文や菓子の礼も兼ね、僧正坊から譲り受けていた薬草の塗り薬を渡して使って貰った所、あっという間に治ったと喜んでおり、頼朝にも分けておくと言っていた。
全てが色鮮やかに目に映る気がした。自分を思い、気遣ってくれる存在がいる事は、遮那王にとって何ものにも代えがたい幸福であった。
いつものように、夜更けに僧正坊の元へ向かった。この所、体も以前よりも大きくなり、剣術も木刀ではなく真剣を使うようになっていた。
僧正坊と対峙し、剣先をピタリと師匠へ向けた。
遮那王は真剣。僧正坊は木刀。瞬時、目にも留まらぬ速さで、遮那王は僧正坊の間合いへと踏み込んだ。
すぐさま脇から木刀が打ち込まれてくるのを、太刀で防ぎ、横へ飛ばされながらも身を翻し、受け身を取る。そうして再び打ちかかった時、遮那王の動きはさらに速くなる。
僧正坊の木刀が、遮那王の太刀の側面を狙い振り下ろされたのを、遮那王はうまくいなして流す。
強くなったな···。僧正坊は改めて思う。体格が成長した事もあり、一太刀の威力は以前とは比べ物にならない。僧正坊でさえも、ひやりとする事がしばしばあるのだ。
暫く続いた頃、ようやく一息つく。近場の湧き水で喉を潤し、熱を冷まそうと頭から水をかぶっていると、後から明るい元気な声に呼ばれた。
「遮那王様、今晩もいらしてたんだね!」
遮那王は見ずとも、声の主が誰だかわかっていた。
「珍しいな、いづる。こんな夜更けに外に出てくるなんて」
「うん。何だか目が覚めてね。僧正坊様の姿が見えなかったから、遮那王様とここにいるだろうと思って」
言いながら、いづるは遮那王に、濡れた顔を拭く手ぬぐいを渡した。
「まだ、夜は冷え込むよ。そんなに濡れては風邪をひいてしまうよ?」
「大丈夫だ、私は体が丈夫だからね。それに稽古をすると暑くて堪らないんだよ。あー、さっぱりした」
今夜は月明かりが眩しいくらいに辺りを照らしていた。遮那王が髪紐も解き、髪を後頭部で結い直す。その時、ちょうど遮那王の濡れたうなじが月明かりに照らされ、いづるは思わず、目を逸らした。
いづるとは都で出会った。年が明けてから、遮那王は僧正坊との武術の稽古の間に、しばしば寺を抜け出し、都へと下りていた。平家の目を忍ぶように、こっそりと。
都の外れに赴いた時、人買いに虐待され、攫われそうになっていた子供が“いづる”だった。
流行り病で親が死に、孤児となったばかりで、他に身寄りもなく一人彷徨っていたのだ。
放おっておけず、どうしたものかと思案したが、都に子供の面倒を見てくれるような知り合いなど居るはずもなく、一先ず鞍馬へと連れて行く事にしたのだ。
寺に連れて行くわけにもいかなかったので、僧正坊の所へ引っ張っていったのだ。何日も飲まず食わずだったのと、人買いに殴られた怪我もあり、衰弱していたいづるを、僧正坊は何も言わずに介抱し、受け入れてくれたのだ。
今よりも痩せ細り、髪の毛は伸び放題で体中汚れていたいづるを、遮那王は何の疑いもなく、男だと思っていた。
僧正坊に介抱され、ボロになっていた着物を脱がされたのを見た時初めて、いづるが"女子"だったと知ったのだ。
驚いていたら、僧正坊に表に出ているよう言われたので、何だかいづるに対して悪い事をしてしまったような気持ちに遮那王はなった。
汚れを洗い流し、清めた顔を見た時、存外可愛らしいなと思ったものだ。
そんないづるも、今は僧正坊の元に身を寄せ、以前とは考えられない程に元気になり、この鞍馬で生活しているのだ。
「私も僧正坊様に剣を習おうかな」
遮那王は以外ないづるの言葉に、目を丸くした。
「なんの為にだ?」
遮那王は顔を傾げた。そんな遮那王にいづるは伏し目がちに答えた。
「だってさ、そうすればもっと遮那王様と一緒にいられるだろう?」
「うーん···木刀や太刀ってけっこう重いぞ?女子のいづるには、ちょっときついんじゃないか?」
「そうだけどさ···」
珍しく歯切れの悪いいづるに、遮那王はまるで妹に言い聞かせるように諭した。
「つまらないのなら、別の事をして遊ぼう。近いうちに、また昼間遊びに来る故、下の川にでも行かないか?そろそろ桜も咲く頃だし、咲いたら見に行こう」
遮那王がそう言うと、いづるは顔をぱっと明るくした。
「本当に!?約束だよ!」
「ああ、約束だ。さあ、もう戻って寝ろ。このまま私に付き合っていては、朝になってしまうぞ。明日は山菜を取りに行くんだろう?」
「うん。もう戻るよ。遮那王様、おやすみなさい」
「おやすみ」
そう言い遮那王に手を振りながら、いづるは住まいの方へと駆けて行った。
いづるを見ていると、赤子のときに別れた妹を思い出す。母と清盛との間にできた娘。
平家の人間達に虐げられたりしてはいないかと、ふと気にかかった。清盛の娘とは言え、母は敵方の義朝の妾であった常盤なのだ。
いづるの事は、出会ってからこの方、妹のような存在として遮那王は見ていた。
自分を慕い、後を着いてくるのを見ると、何とも庇護的な気持ちになる。
いづるは物知りで、とても賢い子であった。少し前から、いづるは僧正坊に読み書きを教わっていた。親も百姓であったため、文字の読み書きは当然習う事がなかったのだが、いざ覚え始めると飲み込みが早いと僧正坊が褒めていた。
遮那王も時間がある時は、書などを一緒に読んだりしている。
いづると過ごす時間は、遮那王にとっても、肩に力の入らない安らいだ時間であった。
もうじき鞍馬に桜が咲く。見せてやったら、あの懐こい顔をさらに明るくし喜ぶだろうと、遮那王は思った。
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