9 / 26

9話  武蔵坊弁慶

 鞍馬山の桜がもうじき満開になろうかと言う頃、遮那王は与吉伝いに、都で商いをしている"吉次(きちじ)"という男と知り合った。 商いの幅は与吉達親子よりも手広く、端は奥州(おうしゅう)まで手を広げていると言う。 与吉にしても、そうも頻繁に京にまで来れない為、頼朝よりいざと言う時、都で遮那王の力になれる者はいないか?と言う頼みを受けて、それならば吉次が相応しいのではとの事であった。  吉次は顔が広く、平家の一部とも交易がある。故に平家の大きい動きは自然、吉次もそれとなく知る所になるのだ。  その吉次の話によれば、平家は今、源氏の残党に目を光らせているらしい。その一人である遮那王が居る鞍馬寺もまた、平家の監視の対象であるとの報告があった。 近頃遮那王は、都へ下りた時に頻繁に平家の兵士と出くわす事が多い。その時は何かしらの変装をしている為気付かれた事はない上、僧正坊から譲り受けた太刀(たち)を腰に差しているので、何かあれば返り討ちにする事くらいはできる。 吉次からは慎重かつ気をつけるよう、念を押された。    吉次の商いの拠点は、都の中心に近い位置に建っていた。そこには珍しい骨董から他国の品物に至るまで、遮那王の目を引くものばかりで、都に下りた時にはよく立ち寄るようになっていた。 「遮那王様、お見えになられましたか」  屋敷に入って行くと、奥からすぐに吉次が姿を見せた。 「夜更けに申し訳ない。吉次の話は面白い故、つい寄ってしまうのだ。迷惑であればすぐに言ってくれ、すぐに帰る」 「迷惑だなんてとんでもない。こんな商人(あきんど)の話なんぞ聞きに来てくれるのは貴方様くらいのものです。飽きるまでお話しいたしますよ」  吉次の話は遮那王にとってどれも新鮮な物で、商いで訪れた西国の話や、兄頼朝の居る東国の話まで、初めて聞くような物ばかりであった。 それを聞くと遮那王は、まるで自分もそこへ行ったような気分になり、世界の広がりを見たような思いになれるのだ。 吉次もまた、遮那王があまりに楽しそうに聞いているので、話して聞かせてやるのが楽しみの一つになっていた。 「ところで遮那王様、今都を騒がせている“鬼”の話はご存知でございますか?」 「鬼?都に鬼が出るのか?一体どのような?」 「はい。何でも、僧兵のような出で立ちをした者が、平家の公達から刀を奪い取ると言う騒ぎが、立て続けに起こっているそうで」 「平家の公達から?何故またそのような···捕まらぬのか?」 「それが、滅法強いと。その鬼に出くわすと、皆逃げ散るという有り様であるとか」   平家の公達を狙っていると言う事は、平家に何かしらの恨みを抱いていると言う事なのだろうが、なぜ刀などをと遮那王は思案する。 「一先ず、にもお気をつけなされませ」 「そうする事にしよう。さて、そろそろ帰らねば。寺の者に抜け出したのが知れたら、どやされるのでな」 「遮那王様。しばしお待ちを」  遮那王が腰を上げたのを吉次が制し、奥に姿を消し、すぐに何かを抱えて戻ってきた。 「夜更けとは言え、平家の兵士に出くわしては事でございます。これでお姿をお隠しなさいませ」 手渡されたのは女物の羽織りであった。遮那王は、素直に受け取りさっそく頭から羽織った。 吉次に礼を言い、そのまま屋敷を後にした。  月に照らされた美しい夜桜を見上げながら、遮那王は考え込んでいた。何故平家が今更自分の事などを狙うのか。随分前に師である僧正坊に言われた言葉を思い出す。 “出家をする事が、自分が助かる唯一の道” つまりは、そういう事なのだと思う。出家さえすれば、平家の目は自分から遠のく。 だが出家をすれば、自分の目指す所の道は遥かに遠い物になる。なってしまうのだ。  そう思いながら、ふと橋向こうにある美しい桜が目に入る。今宵は満月の為か、辺りは昼間のようにはっきりと見える。桜に惹かれるように遮那王は目の前の橋、“五条大橋”を渡って行く。  渡り始めてすぐに、向こう側から一人の大柄そうな人間がこちらに歩いて来るのが見えた。 遮那王は頭からかぶっていた羽織りを、さらに深くし、顔を隠すようにして過ぎ去る事にした。 しかし、それはすれ違いざまに起こった。 「おい女。お前その腰の物は何だ?」  低い男の声がした。遮那王は立ち止まり、羽織りの隙間から男を覗き見た。  ――これが“鬼”か。 「命はとらぬ。その腰の物を置いて行け」 「何故置いてゆかねばならない。断る」  男は持っていた薙刀を遮那王目がけて横から振り抜いた。が、そこに遮那王の姿はなかった。男が目を剥き辺りを見渡すと、男の背後に遮那王は立っていた。 「貴様、男であったか。よもや平家の者ではあるまいな。ならば丁度良い。この弁慶、平家が太刀ぶん獲ってくれる!」 「諦めてくれ。こちらは余計な手合わせをしたくはない。刀を渡すつもりも毛頭ない」 「手合わせだと。小僧、この俺を“武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい)”と知っての戯れ言か!」  言うなり、弁慶は素早い薙刀捌きで遮那王へと斬りかかる。けれども遮那王は避けるばかりで、一向に太刀を抜こうとしない。その様子に弁慶はさらに逆上する。 「貴様ァア!何のつもりだ!ちょこまかと逃げるばかりで、それでも男かあ!!」  何度目かの攻防の時、遮那王が一瞬弁慶から視線を外した。その隙を弁慶は好機とばかりに、一気に距離を詰めその体を貫こうとした、その瞬間。 遮那王は弁慶の頭上を軽々と舞い、橋の欄干に着地した。 その常軌を逸した動きに、弁慶は呆気にとられた。その様はすでに弁慶の中の常識を覆そうとしていた。  弁慶は無意識的にその体に手を伸ばそうと、遮那王に近づく。あと少しで捕まえられる。次の瞬間、弁慶は橋の欄干から身を乗り出していた。 「あっ――···!」  弁慶の喉から引き攣った声が漏れ出た。体が落ちて行く中、一瞬見えた遮那王の姿だけが、弁慶を捕え続けていた。    川に半身だけ浸かったまま川岸に寝そべり、弁慶は月を見上げ続けていた。あの少年は何者なのだ。  あれから川に落ちた弁慶の元に、少年が降りてきた。 「うん、無事だな。この勝負は私の勝ちと言う事かな。すまないが、この太刀は私の師から譲り受けた大事な物故、渡す訳にはゆかぬのだ。そなたもいたずらに平家の人間など相手にせず、己の新しい道を見つけると良い」  それだけ言うと、名も名乗らずにさっさと姿を消したのだ。 「平家の稚児ではないのか···?」    己の新しい道。  弁慶の中では、とうに決まっていた。  

ともだちにシェアしよう!