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13話  蒼然たる

 何が起こった。どうしてこうなった。頼朝は愛しい弟を背におぶり山道を走った。  矢が飛んで来たのだ。それが牛若の背を貫いた。自分の腕の中で動かなくなって行く牛若を、頼朝は震える手で揺さぶり続けた。矢は急所に刺さっているように見える。  寺へ戻り医者を呼んでもらうか、どうするか。頼朝は混乱する頭で考え続けた。寺へ戻るには少しばかり離れすぎていた。 「誰か··!誰か居ないのかッ···頼む!」  気がつけば涙が頬を伝っていた。歪んだ頼朝の視界に小さな屋敷が見えた。頼朝は走った。屋敷までの距離がとんでもなく長く感じながら、ようやく辿り着くと、扉を容赦なく叩いた。  すぐに中から大柄な男が出て来て、何事かと驚いた顔をしていた。しかし、すぐに頼朝の背に力なく項垂れている少年に目が移った。 「遮那王···何があった!?」 「頼む、助けてくれ!弟が矢で射られた···医者を···医者を呼んでくれ!頼む!」  頼朝の悲痛な叫びを聞き、男は頼朝達を中へと入れた。遮那王を床に下ろし、男が背中の矢を確認し、厳しい顔をする。 「これは···」   「大丈夫であろう?助かるよな!医者はどこにいる?私が山を下りて呼んでくる!」 「今から呼びに行ったのでは間に合わん。乏しい知識だが、私は医術の心得がある。私がどうにかする」 「頼む、弟なのだ私の!助けてやってくれ···」    頼朝は泣きながら、男に縋り付いた。それを聞いた男は頼朝の顔を見た。 「貴方様は···もしや···いや、それよりも今はまず、遮那王だ」  男はそう言うと、遮那王の背中の矢を抜くための準備を始めた。  湯をはった桶を用意し、布で矢の根本を抑えながら、深々と刺さった矢をゆっくり引き抜いていく。遮那王は最早、身動き一つしなくなっていた。 「出血は思ったより少ない。すぐに矢を抜かなくて正解でした。急所に入っているように見えますが、僅かにずれております。ただ···」 「何だ···?」 「矢じりに毒が塗ってあったと思われます。矢傷が変色している。遮那王はすぐに意識を失いましたか?」 「ああ···すぐにだ。体も動かせず、口も聞けず息をするのも苦しそうだった」 「この毒は、体の神経を麻痺させる類の物かと存じます。このまま毒が巡り続ければ、いずれ呼吸をも止めてしまいます。申し訳ないが、今は手が足りない。貴方様の手を貸してほしい。私は解毒に使う薬草を煎じます。貴方様はその間、傷口を圧迫し、止血して頂きたい」  頼朝はすぐさま、布を遮那王の傷口へ上から手の平で押し当てた。布はすぐさま赤く染まり、頼朝の手を血で塗らす。その度に新しい布でまた押さえる。湯を幾度も取り替えた。    どれだけの刻が過ぎた頃か、屋敷の扉が開けられる音がし、頼朝はそちらに目をやった。そこには昼間出会った少女と僧兵のような出で立ちの男が立っていた。 「遮那王様!?」  少女は叫びながら、遮那王に駆け寄った。後ろに居た男もまた、目を見開き遮那王を見て声を上げた。 「一体何があったのだ僧正坊殿!なぜ遮那王様が!?」 「弁慶か。遮那王が襲われたのだ。背後から矢で背中を射られた。今は生死の境におる」 「何て事··何て事だァ!私がおらぬ間に、なぜこの様なッ···!あれ程お守りすると大口を叩いたのに···それなのに私と言う者は···なぜそんな時にお側に居なかったのか!!」  弁慶が叫び、崩れ落ちる。頼朝はその様子をどこか遠い所から見ているような感覚に陥った。すると不思議と、先程まで動揺していた気持ちが治まり、混乱していた頭が冷静になって行くと同時に、目の前の状況が理解できた。 「僧正坊殿。出血はだいぶ治まったようだ。次は何をすれば良い」  頼朝が冷静に問うと、僧正坊は薬草を煎じる手を止め、頼朝を見た。 「それでしたら、もう大丈夫でしょう。後はいづるに手伝わせます。若君はどうか外には出ず、屋敷の中に留まっておかれるようお願いします。奥の間が空いております」 「そうしよう。弁慶を側に置いて構わないか?」 「その方が良いでしょう。弁慶、屋敷の外への警戒を怠るな。お前は今、このお方をお守りするのだ。遮那王の事は我々に任せろ」  弁慶は黙ったまま遮那王を見たが、すぐに頷き、頼朝の後に続いて奥へと入った。    隣の間では、僧正坊といづるが動く音が絶えず聞こえて来た。  頼朝は静かに座っていたが、弁慶は苛立ちと悲しみを抑えきれずにいた。 「おのれ一体誰が···誰がこのような···」  頼朝は黙って聞きながら、頭の中では確信をついていた。誰がやったのかも、何の為にかも。 「そなたが弁慶であるか。弟がよく文に書いて寄越した。武勇に優れ、自分に仕えたいと言う風変わりな男だと」  弁慶は、驚いたように頼朝を見た。頼朝はそこで初めて視線を弁慶に向けた。 「私は牛若、いや今は遮那王だな。遮那王の兄にして、源氏が総大将、源義朝の嫡男、源頼朝と申す。名乗るのが遅れた事、ここに詫びる」 「貴方様が···これは!これは失礼仕りました!」  弁慶は弾かれたように、頼朝の前に座し、頭を下げた。 「私は武蔵坊弁慶と申す者。遮那王様を我が主と定め、源氏一門に付き従う所存にて、今日まで生きて参った次第にございます」 「そうか···弱体した我ら源氏に、付き従ってくれるか」   頼朝が虚空を見つめ、ぽつりと呟いた。直後、襖がすらっと開いた。そちらを見やると、僧正坊が膝をついていた。 「終わりましてございます」  頼朝と弁慶は、隣の間に移動した。遮那王は夜着に着替えさせられ、白い顔のまま眠り込んでいた。部屋中、薬草と血の臭いに満ちており、いづるが止血に使用した布と、湯桶を持って外に出て行く所であった。頼朝は遮那王の冷たい手を握り込んだ。 「出血は、若君がしっかりとなさってくれていた故、すぐに止まりました。矢がそれほど太くなかったので、傷口も小さくて済みそうです。先程、解毒薬を喉に流し込み飲ませた所、呼吸が強くなって来ました。一刻置きに薬草を飲ませ、一先ずこのまま様子を見ます」   「···峠はこれからと言う事か?」  説明を聞き終えた頼朝が僧正坊に問うた。弁慶は口を開く事もせず呆然としていた。 「はい。しかし、生命力の強い子です。今は遮那王を信じるしかないでしょう」 「···そうだな」  頼朝は目を瞑り、小さく答えた。  僧正坊が改めて頼朝の前に座し、敬服の姿勢をとった。 「名乗り遅れました。私は、貴方様のお父君、源義朝様が側近、平賀義信(ひらがよしのぶ)と申す者。現在は、“僧正坊”と名乗り、この鞍馬の山奥にて密かに暮らしております」  弁慶は驚いたように僧正坊を見た。頼朝は別段驚く事もなく、静かに僧正坊を見ていた。自分の事を、“若君”と呼んだ時から、目の前の男が何者かは、想像がついていた。 「そなたが僧正坊であったか。父に従軍して、京を落ち延びた時依頼であろうか。すっかり面影が変わっていたので、わからなかった。すまない」 「いいえ、謝るのは私にございます。尾張(おわり)にて、義朝様をお守りする事叶わず、さらにはご嫡男であられる若君の助けにもなれず、このような姿になり、今の今までこの地にて生き延びてしまった次第。お許し下さい」  僧正坊は涙をこぼしながら、頼朝へ頭を下げた。   「頭を上げてくれ平賀殿。生き延びた事を悔む必要などどこにある。私は見ての通り、流人とは言え元気にやっている。それにそなたが居らねば、遮那王はもうすでに死んでいたであろう。礼を言うぞ」  僧正坊は涙で濡れた顔上げた。頼朝は遮那王に目を落としたまま、なおも続けた。 「平家か···?」  頼朝の声はとてつもなく冷たく響き渡った。その声に弁慶は、体の芯から震えが来るのを感じた。僧正坊が一拍おいて答えた。 「間違いなく。この矢を見た事があります。普通の矢よりも短い。平家の隠密が使用する物です」 「隠密···?それでは何か、遮那王様は暗殺されかけたと言う事か!?」    弁慶が突如、怒りで大声を上げた。それを僧正坊か制し、続けた。 「ただの隠密ではない。おそらくは、清盛直下の部隊」 「···清盛」  頼朝は、かつて自分の命を救い、同時に流人へと落とした男の顔を思い出した。遮那王とて清盛に命を救われた一人であったはずだ。それをまた殺そうとするのか。父のように、また自分から奪おうとするのか。  頼朝は自分の中に、かつてない程の禍々しい感情が生まれゆくのを肌で感じていた。  これが憎悪、これが怒り。知っていたつもりであった感情が、いかに常識の範囲内であったのかを、頼朝は実感した。 「おそらく、素性が知れているのは遮那王のみであった事も、狙われた原因でしょう。以前にもならず者の集団に襲撃を受け、弁慶が一蹴した事がありました」 「毒までも使うのか、平家は」 「手段は選ばないと言う事でしょう。兵を動かせば、鞍馬寺だけではなく、朝廷、各地の寺院からも非難、抵抗に合います」  頼朝と僧正坊のやり取りを聞いていた弁慶が、拳を床に叩きつけた。  それから暫く、三人の間に沈黙が流れた。静寂は、いづるが外から入って来た音で終わりを告げた。          

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