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14話  僧正坊

 僧正坊と名乗り始めた頃を平賀義信(ひらがよしのぶ)は克明に覚えていた。  主である義朝が敗死した。落ち延びる途上で匿われた屋敷で、恩賞金目当ての家人の裏切りにより。    都落ちの最中、嫡男である頼朝と散り散りになった義朝は、側近である義信に二つの太刀を預けた。源氏に代々伝わる宝剣だ。そして義信に対し、自分がこの先討たれる事があろうとも、二つの宝剣と息子達の身を頼むと、後を追う事をも許さずに託したのだ。  義朝最期の報を受けた義信は、平家の追っ手から逃げ延びた。主の仇を打つ事もままならず、必死に野山を駆け回った。途上、頼朝や共にいた配下の兵達の捜索を行ったが、消息を知る事は出来なかった。そして都に舞い戻り潜伏した先にて、頼朝捕縛を知った。  その後、世間から姿を消し、鞍馬の山奥に籠もり、僧正坊と名を変え、ひっそりと生きるようになった。義朝の遺言は何一つ遂げる事が叶わなかった。そんな己を日々戒め、倒れるまで剣を振り続けた。    そんな僧正坊の前に、一人の子供が現れた。遮那王だ。母、常盤と共に、清盛の庇護下にあると噂に聞いていたが、この度仏門へと入る事に相成ったと言う、義朝の遺児。その子供が剣術の指導を請うて来た。遮那王の瞳には、強い光が宿っていた。何に対してなのか、それとも己の身のうちで燻る何かがあるのか。僧正坊は、その子供に微かな希望を見出した。現状を打破する、光となるやもしれぬと。  遮那王は剣の才能に恵まれていた。剣術、武術、体術、どれもあっという間に己の物にして行った。そんな遮那王に僧正坊は、義朝の遺品である宝剣の一つを預けた。持つに値すると思ったからだ。  そんな遮那王の口から、頼朝の入京の話を聞いた時、僧正坊の心の臓が大きく跳ねた。伊豆へと流罪された頼朝が、遮那王と繋がっていたとは、まさに青天の霹靂であった。先だっての源行家の訪問からこちら、変化と言う名の流れが、僧正坊を取り巻いていた。 頼朝を訪ね、幾度か伊豆へ訪れようかと思った事もあったが、平家方の監視の元と聞いていたので、自分が訪った事で頼朝に万が一の事があってはならぬと、躊躇していた。    その頼朝が平家の監視の目を潜り、昨年この鞍馬に、そして今再び訪れようとしている事に僧正坊は、小さな希望の光が、大きなものに変わりゆくのを肌で感じていた。   「頼朝様、もう日暮れになります。お体が冷えますので、どうか中にお入り下さい」  外で風にあたっていた頼朝に、僧正坊が声をかけた。遮那王が倒れてから三日が経とうとしていた。以前、意識の戻る気配がなく、脈も弱いままであった。僧正坊は、あれから頼朝を、僧正坊の住まいにて匿っていた。頼朝が頑として、遮那王の傍を離れなかったのだ。遮那王の事は、鞍馬寺へも隠し通していた。母御の急病にて、嫁ぎ先である一条家より使いが訪れ、急遽下山した事にしてある。寺の僧達は不審を抱いたようだが、僧正坊がそれを押し通したのだ。 「今頃清盛は、遮那王暗殺の報に、宴を催しておるのかの···」  頼朝は見動きしないまま、口に出した。辺りはすでに薄暗く、その顔を伺い知る事はできないが、何とも深く冷たい声色に、僧正坊は一瞬何と声をかけたものかと、逡巡した。 「清盛は恐ろしい男ですが、節度の無い人間ではございません。ましてや一度は庇護した遮那王の生死ともなれば、そんな事は致しますまい」    平家は今、遮那王は十中八九死んだと思っているだろう。もしくは再起不能であると。現にいまだ、遮那王は生死を彷徨っている。それ程の強い毒が体中を蝕んでいる。一糸の気の緩みもなく状態を観察し、解毒薬を体に流し込まなければならないのだ。平家が兵士ではなく暗殺部隊を送り込んだのは、その影の者達の腕に絶対の信頼があるからに他ならない。今の平家は、勝てない戦などしないのだ。  僧正坊には、ここ数日ずっと頭の中で描いている策がある。それは純粋さとはかけ離れた、ひどく仄暗いものかもしれない。  僧正坊が静かに口にした言葉に、ずっと前を向いていた頼朝が、ゆっくり僧正坊に振り向いた。 「遮那王には···消えてもらいましょう」    

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