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17話   月は昇る

  遮那王が鞍馬寺へ戻った。否、と言う方が正しいだろう。  僧正坊は、ここ十日余りの怒涛の日々を思い返す。血と慟哭と、混乱。屋敷の中からはようやく薬湯の匂いが消えた。代わりに中からは、いづるの啜り泣く声が聞こえてくる。    僧正坊の目の前には数日前、頼朝と相対して話し合った場所が広がっている。そこに頼朝の姿はもう無い。一歩足を踏み出せば、心地良い風が通り過ぎて行く。体で風を感じ目を閉じると、僧正坊はあの日頼朝を前にして口にした、罪の話を思い起こす。 「遮那王には···消えてもらいましょう」    そう告げた僧正坊を、頼朝がゆっくりと振り返り見つめた。表情の無い顔は青白く、血走った眼は見開かれていた。 「今何と言った···もう一度言ってみろ」  以前に遮那王が言っていた。頼朝は優しく温厚であると。僧正坊の前に佇む男から、地を這うような低く冷たい声が足元を伝って耳まで届く。僧正坊は体の体温が急激に下がるのを感じる。僧正坊は跪いた。頼朝次第では、自分は明日の朝日を拝めないだろう。 「遮那王を一度、」 「···どういう意味だ?」 「遮那王···いえ牛若は、双生児にございます」  僧正坊の言葉に、頼朝は一瞬時が止まったかのように動きを止めた。次の瞬間、頼朝の脚が僧正坊の左肩へと飛んで来た。顔が地面に叩きつけられた事に気が付いたと同時に、左肩に痛みが走った。 「ふざけた事をぬかすな!随分とこの頼朝を愚弄してくれる。牛若が双子だと?そんな話があるか!父上はおろか、他の誰からもそのような話聞いた事が無い!これ以上戯れ言を申せば、命が無い事はわかっているな僧正坊!」 「戯れ言にございません!···常盤様が産気づかれたあの日私は、亡きお父君義朝様に付き従い、常盤様の邸へと赴きました。常盤様がお産みになられた赤子は二人。先に産まれたのが、牛若にございます」    頼朝の視線が、僅かに屋敷へと向いた。いや、屋敷の中で未だ目覚める事なく、生死の真っ只中にいる遮那王へと。そんな頼朝に僧正坊は、畳み掛けるように、しかし冷静を装いながら、語りかけた。 「双子は凶兆。義朝様より、弟の方は殺せと命じられましたが、常盤様のご嘆願により生かして市中にて匿われ、今に至るまで源氏一門との関わりを完全に断ち、育っております」 「···それで?」  抑揚のない深い水底のような問いかけに、僧正坊は思わず頼朝の顔を見上げた。  少年の面影はすっかりとこそげ落ち、数日のやつれが端正な顔をさらに引き立たせていた。そしてその顔に今は、怒りとも蔑みとも取れる色が浮かんでいた。 「だからその死に損ないのを、身代わりに傍に置けと言っているのか?」 「···左様にございます」 「私が帯刀していなくて命拾いしたな、僧正坊。どのみち牛若が治癒するまでは、懇願されたとて死なせはしないが、その覚悟があっての発言と取るぞ!」 「私の命は、貴方様に委ねます。遮那王が回復次第、すぐにでもこの首を差し出しましょう。ですが一度だけで構いません。私の話をお聞きしていただきたい! 平家を倒し源氏再建の悲願を成し遂げるために!」    僧正坊は語気を強めて言い放った。虚を突かれたような表情をした頼朝は、暫しの間、僧正坊の顔を凝視していた。値踏みされているのだろう、と僧正坊は思った。頼朝が僧正坊の意図を読み取ろうとしているのは明白であった。僧正坊は頼朝にとって信用に値するのか、頼朝の利益になり得るのか、と。  僧正坊は長年胸に秘め続けた願望を、今この時こそ、亡き主の忘れ形見である頼朝へ、託す時が来たと悟った。 「頼朝様のご胸中にも、いつもお有りになっていたはずでございます。私には、貴方様のお気持ちが手に取るようにわかる。だから危険を犯してまで、伊豆を抜け出した。鞍馬へ参られたのも、見定める為でございましょう。使える者かそうでないか」  頼朝はただ、無言で僧正坊を見つめ続けていた。そして視線を外すと、親とはぐれた子供のようにゆらゆらと瞳を揺らした。 「想定外であった···情が沸いたのは」  僧正坊もまた、そんな頼朝をただ見つめていた。そして僧正坊は、核心へと進める。 「遮那王には剣才があります。そして賢い。同じ年頃の少年達に比べてずっと。ですが、武士(もののふ)には向かない」  おそらく頼朝にもそれはわかっているのだろう。それが何故なのかも。 「強要するつもりはない。それはあの子にも伝えてある。本人に選ばせるつもりだ」 「ですが、それでは悲願は果たせない。平家を倒すには圧倒的な武力が必要です。そして武の塊である軍を動かす智略。それには遮那王の剣の腕と頭脳が事欠かせない」 「能力のある武将は他にも居る」 「いいえ!平家を倒せる程の者は居ない!」    頼朝は察した。いや、わかってしまった。僧正坊が何を言いたいのか。その頭で何を思い描き、巡らせているのかを。そして、得体の知れない物を見るような眼で僧正坊を見る。 「······お前」 「遮那王がこうなった今、その片割れであるその子を遮那王として立てる。これしかないと存ずる」 「お前···お前は言っている事が矛盾している。才能があるのは遮那王であって、その弟ではない!」 「いいえ、頼朝様。貴方様と同じ義朝様の血を受け継ぎ、遮那王と同じ肉体と頭脳を持つ者。おそらく、遮那王と同等かそれ以上の能力があるに違いない。これは勘です。ですが限りなく確証に近い勘である事を信じていただきたい」  僧正坊は額が地面に着くほど、頭を下げた。頼朝は僧正坊を一瞥してから空を見つめて、感情の乗らない声色で答えた。 「そやつを、私の前に連れてこい」    

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