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18話  彼我の境

 日常が終わったのは突然だった。暗い、先の見えない日常。  襖の向こうから、此方へ向かって来る足音がした。また“客”が来たのかと、体を起こし待っていると、開いた襖から見知らぬ体の大きな中年の男が此方を覗いて、眼光鋭く自分を見下ろして来た。それが少しばかり癪に触ったので、下から睨めつけるように見上げてやる。 「何処ぞの生草坊主か?悪いが、今日は昼前にニ人程相手にしているから疲れている。下の処理がしたければ、遊女にでも相手してもらえ」  そう言ってやると、男に無言で腕を掴まれ、外へと連れて行かれた。その勝手な振る舞いに、普段滅多に昇らない血が頭へと逆流した。反射的に腕を振り払うと男が振り向いたので、皮肉を込めた言葉を投げかけてやった。 「断りもなく俺に触れるな。貴様一体どういうつもりだ。悪いが外で交わる趣味はないし、お前の事は好みじゃない」 「生憎、私にもそんな趣味はない。そなたには私と共に来てもらう。反論はしないでくれ。今はそなたの意思を問うてる時間も、聞いてやる暇もない」  意に介する事なくそう返してきた男は、騒ぎを聞きつけ庭へ出てきた侍女に、持っていた包を渡し、告げた。 「この子は私が引き取る。御役目ご苦労であった。この中に暫くは生活に困らないだけの金目の物が入っている故、受け取れ。屋敷は後程引き払うが、金目の物は売って身に当てろ。吉次と言う者ならば、良くしてくれる」  それだけ告げた男に再び腕を取られ、体を引かれる。日頃から自分を冷静な人間と自負して来たが、流石に状況の展開について行けないでいると、そのまま屋敷の前に繋がれていた馬に乗せられた。男は自分を後ろから抱えるようにして、そのまま手綱を取り馬を駆りはじめた。    流されるままの人生なのだと、悟った。今もこうして、見ず知らずの男に命運とやらを握られているのだ。自分は何処に連れて行かれるのだろうか、その先で自分は、この男に慰み者にされ殺されるのだろうか。はたまた人買いに売られるのか。馬に揺られながら、そんな事をぼんやりと考え始めた。     「そのどれでもないな···」 「何か言ったか?」  ぽつりと口走ると、男が聞き返してきた。背が着くほどの距離に居るからか、屋敷にいた時より男の顔が間近で見て取れた。好みじゃないと言ったが、侮蔑する程でもない。むしろ均整のとれた表情は、見る者が見れば好ましいと思うであろう。 「申し訳ない。悪いようにはしない•••とは言い切れぬが、私の全てを持って、そなたを守ると誓う」  だから赦してくれ•••。そう言ったきり男は息一つ漏らさなくなった。 「そなたは今日から遮那王だ」  山の麓に着いた時、ようやく馬から降ろされ、男に連れられるまま山を登った。 そして、この見知らぬ若い男の前に引きずり出された。氷のような冷たい眼をした男は、自分を検分した後、一言こう言ったのだ。 「我が弟、遮那王に成り代わり、この鞍馬寺にて過ごせ」  言葉が喉から出てこない。二の句も告げないとはこう言う事かと思った。男に顎を上げられ、執拗に顔を見つめられている間も、言葉は出てこなかった。 「目から鼻•••唇の形•••肌の色まで、これ程までに瓜二つなのか、双子とは。ああ、瞳の色が違うな。左の瞳だけ薄い(みどり)だ。このような瞳見た事がない。美しいな」  牛若に与えたい程だ•••。男は独り言のように、ぶつぶつと呟く。出逢って間もないが、“遮那王”は目の前の端正な男に嫌悪感を抱いていた。そしてそれは、自分を値踏みし続けているこの男もそうであろうと確信した。 「平賀、いや僧正坊。この子に全てを教え込むのだ。坊主が怪しむであろうから、数日後には寺へと入らせたい。それまでに」 「御意に」 「私は与吉と合流し、伊豆へと戻る。牛若の事はどうかよろしく頼む。死なせるな。あと数年。数年で必ず事を成す。そなたもそのつもりで準備を整えよ」  それだけ言うと、男は姿を消し、それきり戻っては来なかった。 (って•••俺にその“遮那王“を()れと言う事か•••)    慰み者にされた方が、まだましだったんじゃないかと思った。    それからこの僧正坊に事の全てを聞いた。その時初めて、自分が源氏の血筋であった事を知った。あの邸に自分を閉じ込め、世間と断絶させたのは、実の父とこの僧正坊であると言う事。先程の若い男は自分の異母兄であり、現源氏の棟梁である事。自分は双子で、その兄は平家に襲われ重体である事。  全てを聞いた。この世に生まれ落ちてから今に至るまでの事を全て。この一日で。  恨みも憎しみも生まれはしなかった。ただ、物分りの良すぎる自分の頭が、事態とこれからの展望を勝手に処理して行く。心と体が離されて行く。    虚無。無感情。“自分”が深い水の底に沈んで行くのを感じた。存在意義など、生まれてこの方無かったのだ。

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