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25話 懇ろの心は

 どうやら自分は長い事昏睡していたらしい。襲われた時の記憶は混濁していて、はっきりと覚えていない。ただ兄の頼朝の泣き叫ぶ声だけは耳から離れず、自分は何て事になってしまったのだろうと何とも居た堪れぬ気持ちになってしまう。   いづるや弁慶は見る影もなく衰弱していて、目覚めた沙那王に泣きながら縋り付いて来た。しばらくの間は、もう大丈夫と言っても、沙那王の世話をあれこれ焼いた。  目覚めてからの沙那王は、まるっきり変わってしまった状況を理解するだけで数日要した。その間に兄からの文も届き、見舞いの言葉が延々と綴られていたのと、もう1人の弟…についての経緯(いきさつ)が混々と書き連ねてあった。平家方の動向と、現在の源氏方の状況。致し方のない事であった事と、またこれ以上自分を巻き込み危険に晒したくないとの事であった。 「何だか、私だけ置いてけぼりを食ってしまった気分だな…」    ぽつりと呟いて、はじめて沙那王は自分が寂しいのだと気づいた。今は僧正坊も都へ、いづるも弁慶も薬草を摘みに出て留守にしている。自分に言葉を返してくれる人は居ない。 「独り言とは、余程話し相手に飢えているのかい?それとも寝飽きたのかな」  馴染みのない声、けれども誰よりも魂に近い感覚で知っている声が聞こえ、戸を見やると、自分と瓜二つの姿形が入って来た。にこりと笑う綺麗な顔を見やると、自分にも同じ顔が付いているはずなのに、一気に鼓動が速くなるのを感じて身構えてしまう。  身代わりにしてしまった、自分の分身。血の繋がった弟。 「久しぶりだね。前見た時より顔色が良くなった。身体はどうだい?」  ふいに顔を近づけて問われ、口移しで白湯を飲まされた事を思い出してしまった沙那王は、恥ずかしくなり思わず顔を逸らしながら答えた。 「…うん、だいぶね。随分と良くなったよ。そなたはその…どうだろうか…?寺の方は…」  まだこの弟との距離感が掴めない沙那王は、気まずさと申し訳なさで視線を手元に落とした。 「こちらもぼちぼちさ。それにしても寺と言うものは退屈の極みだね。俺には信仰心と言うものは無いらしくてね。坊主共と同じ事をしようものなら、退屈すぎて死にたくなってしまうんだ」  悪びれもなく、到底美しい顔に似つかわしくない毒を赤い唇から吐き出すこの弟に対して、望まぬ事を押し付けている罪悪感から、沙那王は益々まともに目の前の分身の顔を見られなくなった。そうと知ってか知らずか弟、"沙那王"は楽しそうに鈴の音のような声で、ころころと楽しそうに話しかけて来る。 「退屈なのは俺も一緒なんだよ。寺ではまともに渡り合える話し相手が居なくてね。でも君となら対等に話せそうだ。運命的にめぐり逢った兄弟同士、仲良くしてほしいな、兄さん」 「あ、その…"沙那王"…そなたには申し訳なくて、合わせる顔が無い…。本当何と言ったら良いか…。私は今になるまで、そなたの存在すら知らずに、生きて来てしまった。なのに身代わりなどと…」  沙那王は本音を言った。母からさえも自分が双子である事など一度も聞いた事がない。頼朝でさえ知らされてなかった。それがどう言う事か。自分の弟は、今に至るまでけして順風だった訳では当然ないだろう。自分に対する、目の前の弟の気持ちが肯定的でないのは覚悟の上だった。 「その…憎くはないか…?私が…」 言ってしまってから後悔した。何故このようなことを聞いてしまったのか。もしそうだと言われたなら、それこそこの先どんな顔をして接して行けば良いのか。今の沙那王は心の強さを失ってしまっていた。  そんな沙那王を、優しく柔らかい声が包む。 「俺があなたを? 何故?」  沙那王は反射的に顔を上げ、自分と同じ顔を見やった。そこには優しい顔をした弟が居た。その弟が優しい口調で語りかけて来た。 「兄さんは優しく賢いから、俺の境遇を察して同情してくれてるんだね。生まれてから今に至るまでの。でもそれはあなたに罪がある訳じゃない。たまたまこんな時代に、たまたま双子に生まれてしまった。それだけさ。都を見渡せば、俺達なんぞよりよっぽど悲惨な人間が、小石のように転がっている。雨風凌げて、食べ物にありつける。それだけで充分恵まれているだろう?」  沙那王は今まで、自分の境遇を真剣にそんな風に考えた事はなかったかもしれない。ただただ、母や清盛の事、寺に入れられてしまった事への鬱屈感やしがらみ。食べ物や寝る所は、場所こそ変えども、自分で何かせずとも当たり前に目の前に差し出された。 「そなたは強いな…私はこの様になってこの方、心が弱くなったように思う。いや元々強くは無いのだけれど…そなたを前にするといかに世間知らずなのか、自ずとわかってしまう」 「寺に居れば、世の事に疎くもなろう。そうだ、双六はできるかい?俺は都にいる時、よく双六や囲碁などをして暇を潰した。体が回復するまで床でじっとしていたんじゃ、退屈で仕方ないだろうし、余計な事も考えてしまうだろう?僧正坊殿に言って用意してもらう故、今度やろう!」 「双六か、懐かしいな。鞍馬へ来る前は私もよく嗜んだ。そなたがここへ来てくれれば楽しいし、気が紛れる」 「では、決まりだね。元のように動けるようになったら、剣術の相手もお願いしたい。聞けばかなりの腕だとか」 「相手をしたら驚くと思うぞ。あまりに並だから」  お互いくすくすと笑い合えば、何とも穏やかな日常かと錯覚してしまう程、二人の間には温かかで安らぐ時が流れていた。その後すぐに、"沙那王"は寺へと戻ると言って帰ってしまった。抜け出して来たから、叱られるかもしれないと眉を下げていたが、恐れている様子は少したりともなかった。そんな些細な仕草でさえ、自分と比べると随分と肝が座っているのだと思わずに居られなかった。    少しばかり話し過ぎたかと、心地良い疲労感に浸っていると、すぐに弁慶といづるが薬草を背負って戻って来た。  「沙那王様、ご気分はどうですか?今日は弁慶さんがきのこなども沢山採ってくれたから、汁物に入れましょう!」  いづるが嬉しそうに沙那王に話しかけ、籠いっぱいの山の恵を目の前に突き出す。沙那王も微笑みかけながら礼を言った。いづるが薬草ときのこを持って、奥の土間の方へと消えて行った。それを弁慶は微笑ましい表情で見送ってから、沙那王の床の側まで来て座った。 「いづるもだいぶ元気になりましたなあ。笑顔がわかりやすく増えた。やはり貴方様が元気でおられるお陰でございましょう」 「お前にも随分心配をかけてしまったようだな。すまなかった。兄上にもどんな顔をしたら良いか…」 「貴方様がご無事でおられる、これにつきましょう。我々が留守の間、変わりはありませんでしたかな?」 「ああ、弟が来てくれたよ。先程帰ったばかりッ…!?――」  言い終わらない内に弁慶に両肩を掴まれ、沙那王は言いかけていた言葉を詰まらせてしまった。あまりに突然の事に驚き、間近に寄せられた顔を見やれば、先程までとは打って変わり、眼を見開き眦を吊り上げた弁慶がそこに居た。見た事もないような弁慶の様子に沙那王は言葉が出てこなくなってしまった。 「…にもッ…」 「え…?」 「何もされてはおりませぬか!?」  沙那王は弁慶が何を言っているのか、すぐに理解ができず、何と返答したら良いのか、頭をぐるぐると巡らせた。 「…何とは…?話しをしただけだ。一体どうしたんだ弁慶。この所少し変だ。何かあったのか?」  弁慶の様子がおかしい事に、沙那王は少し前に気付いていた。だが自分が襲撃されてよりこちら、状況が一変した事を鑑みれば当然なのだろうと思い黙っていたのだが、今の弁慶は明らかに、そして余りにも様子がおかしすぎる。弟の話をした途端に。 「私が昏睡してる間、弟と何かあったか? あれは…やはり私の事を…」 「そうではござらん。貴方様は何一つ…思い煩う事などございません…!」 「弁慶…」 「沙那王様…今後はお側に誰かしら常に付き添わせるように致します。いづるでもいい。一人きりにはならないように致して下さい。…平家に襲われたが、沙那王様は生きて元気でいる事になっている。実際、弟君の姿を平家方の間者は既に確認していましょう。何かあれば次こそは…」  沙那王は。弁慶の必死な様子にとてつもない不安を感じた。平家もそうだが、それとはまた別の危険。そしてそれが何かなのかは、直感では理解しているものの、頭が無意識に拒絶して、沙那王は靄がかかったような心に蓋をした。  弁慶が小声で何か呟く。 「手出しはさせぬ」    

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