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希う

「ああ、ひどい目にあった……」  食事もそこそこにベッドへ倒れ込む。眠ろうと思ったが、今日あった出来事が次々頭の中を巡り、目が冴えてしまった。  スマートフォンを取り出して、「国際エクソシスト聯盟」「オガラの灰」「三盆枝のかみそり狐」などを検索する。しんとした部屋に、クリック音とバイブレーションが小刻みに響いた。 「あっ、『エクソシスムでは迷信じみた儀式は避けるべき』って書いてある。偉そうなこと言っておいてあの野郎……。いっそのこといなくなっちまえばいいのに。なあ秋白(あきしろ)——」  返事はない。数秒の沈黙の後に、日中あった出来事を思い出した。ついでに疲労感までぶり返してくる。 (秋白がいない夜なんて久々だ)  右手の人差し指を見つめる。いつもなら他愛無い話題で眠気が来るまで盛り上がるのだが、秋白のいない部屋は暗いしじまに包まれている。  眠気はまだ来ないが明日も一限から授業がある。もう寝ようかと思い横向きになって、数秒後のことだった。 「新美(にいみ)」  耳の後ろからはっきりと声が聞こえた。待ちわびていた秋白の声。思えばこんなに長く離れていたのは小学生以来だ。喜びが湧き上がり安堵に満たされていき、振り返ろうとした刹那だった。  灰を撒かれた時に見えた、秋白の最後の姿がフラッシュバックし、新美は動きを止めた。  背中には何者の体温も感じない。いつもなら、気にするまでもないことだった。体温がなかろうが、呼吸音が聞こえなかろうが、秋白がそこにいるということ以外は重要ではなかったのだ。  今までは寝床に入れば秋白が後ろから抱きついてきて、火傷の痕を丹念に舐め、感じやすい場所を弄び、新美が果てるまで戯れるのが常だった。だが、今は……あの黒く不定形な、液体とも固体ともつかないものが自分の背中にはりつき、秋白の声を発しているのかと思うと、今すぐ気絶してしまいたかった。 「あいつがまいた灰が目に入って、驚いて逃げ出しちゃった。ごめんな? 置き去りにして……怖かっただろう」 「う、ううん……大丈夫。俺の方こそ、すぐ追いかけられなくてごめん」  初めて秋白に嘘をついた。  恐ろしいのは烏丸ではなく秋白の方だ。だがそう思っていることを秋白に知られるのは良くないと本能的に感じた。恐怖で叫び出しそうになるのを堪えて、必死で静かな声音を作る。 「新美は悪くないよ。あいつが悪いんだ、あいつが……」 「秋白、あ……」  ざらざらした長い舌が、顔の右半分を覆う火傷の痕を舐め回す。恐ろしいはずなのに、体は慣れ親しんだ快感を拾ってうねった。  「オガラの灰」を調べて分かったことがある。  その昔、疱瘡や火傷の傷跡を野狐(やこ)に舐められると死ぬ、という伝承があった。野狐と呼ばれる、人を誑かす狐を寄せ付けないために、オガラの灰をまいたのだという。  不可思議な符号の数々。  烏丸が手で作った「窓」から見たものは、狐という感じではなかったが……秋白が人外のものであるという仮説は、妙に腑に落ちた。  思索を巡らせているうちに、秋白の両腕が上半身に伸びていき、鎖で拘束されたかのように体が動かなくなる。金縛りがどういう現象かは知っていたが、実際に起こると正気ではいられない。ましてや本物の怪異が関わっている状況では。  体を抱きしめる腕は優しいのに、身じろぎすらできない。秋白の手が胸を、腰骨を鷲掴み、そのまま深く爪を立てる。 「いっ……」  そのまま手を滑らせたら肌が切り裂かれる……相手の姿が見えないだけに嫌な想像が掻き立てられた。動かない体で縋るものもなく、新美はスマートフォンを握りしめた。 「新美! 何を持ってる」 「えっ!?」  握りしめた手の形に合わせてシリコンが歪み、カバーが外れた。それを見たらしい秋白は、(いと)わしそうに唸り声を上げた。 「彼奴(きゃつ)め、護符なんぞ持たせよって」 「ごふ?」  スマートフォンのカバーから、烏丸にもらった名刺がこぼれ落ちていた。どうやら裏面の白いエンボス加工は魔除けの護符を刻印しているらしい。 「こんなもの破り捨ててしまおう」 「で、でも捨てないでって言われた……」 「あんな奴の言うことなんて聞く必要ないよ。脅されでもしたのか? かわいそうに」  烏丸はいけすかない奴だが、この状況では唯一事態を好転させる可能性のある人間だ。彼とのつながりを失うのはまずい。しどろもどろになりながら言い訳を並べ立てようとすると、秋白は優しく囁いてやんわりとそれを制した。 「心配しなくても、お前の『願い』はちゃんと叶うよ」 「え……」 「『願った』だろ? 『いなくなればいい』って」 「あ、あ……いや、それは言葉のあやで」 「今更何言ってるんだよ、今までだって言葉のあやでも関係なく『叶った』じゃないか」  だめだ。  ぶわっと身体中の毛が逆立ち、外面を取り繕うことさえ出来ないほどの焦りが、舌を痺れさせる。  相手の表情が見えないことが救いだと思ったが、もしかしたら相手だけには自分の焦燥が見えているのかもと思うと恐ろしかった。そのせいで目を閉じることすら出来やしない。 「まあ、今回の『願い』は大きいから……きっと時間がかかる。その間に、あいつにしてやりたいことでも済ませておけばいい」  秋白、と呼びかけて、返ってくる声がないことに気づいた。  いつの間にか上半身の拘束も解かれている。  後ろを向いても誰もいない。  どっ、と汗が噴き出た。まだ薄がけでいいだろうと思っていた布団がひどく心許ない。 「秋白だめだ、俺はそんなこと『願って』ない。秋白」  いつもなら、何時であろうと呼び掛ければすぐ返事があるのに、声は部屋の四隅の暗闇に吸い込まれていった。どこかに行ってしまったのか。いや、もしかしたら闇に紛れてこちらの様子を窺っているのかもしれない。そうであれば、きっと自分は試されているのだ。 (どっちにつくか決めろってこと?)  秋白につけばこの身を食い尽くされ、烏丸につけば二人とも呪い殺される。どちらを選んでも結局行き先は一つ。 (死ぬのは、嫌だ……一人になるのも嫌。でも秋白とは、もう一緒にいられない。どうせ死ぬなら、誰かと一緒じゃないと嫌だ……)  不可抗力とはいえ、死を『願って』しまった相手に助けを求めるなんて。しかも、自分が一人で死にたくないからと言う理由で……  なんて利己的でクズなんだと、良心の呵責に息が詰まる。  徐々に明るくなる部屋の中で、せめて烏丸に勘付かれることのないように、協力する口実を必死で考えた。

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