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狂れたる

◆◆◆  車道の両側は海だ。  さながらモーゼのよう。海の真ん中を車で走るというのは、非日常感があってなかなか楽しい。母が運転する車の他は後続車も対向車もいない。  海の上に建てられた道路の先には母の故郷がある。退屈な空の旅から一転、海と陸を同時に楽しめるなんて思わなかった。のんびりとわくわくが共存する、夏休みの一日目みたいな気分。  これでお父さんがいれば最高だったのに。そう口に出しかけて、慌てて唇を結んだ。  母は窓を開けてタバコを吸っていた。父の嫌った歌手の曲を流していた。父の前で我慢していた諸々を解放して、息子である自分の前ではもう何もとり繕わなかった。 「やっぱりこの苗字が落ち着くわ」  非日常感にわくわく出来たのは数日だけだった。母にとっての古巣は、自分にとってはいつまでも続くゲームのボーナスステージに等しかった。一度だけ「いつ帰るの?」と聞いたところ、渋い顔をされた。  その場は冗談を言った風に誤魔化して、それ以降同じ質問は二度としなかった。もう自分の帰る家はなくなったんだ、と気づいて、初めて離婚がどういうものなのか理解した。 ◆◆◆ 「……大丈夫? こんな話退屈じゃない?」 「いいえ。気にせず続けてください」  烏丸(からすま)は居住まいを多少崩して足を組んだ楽な姿勢をとっていた。相変わらず表情はぴくりとも動かないが、新美(にいみ)にとってはそのリアクションの薄さがありがたかった。話し下手なのを自覚していたし、何よりここ数年は人ならざる者とばかり対話していたのだから。  それにしても烏丸の射抜くような視線には、少し腰が引けてしまう。彼が興味を示しているのは自分ではなく、話の内容なのに……人付き合いの経験値の無さを今更ながらに悔やみたい気持ちになった。 「じゃあ、続ける」 ◆◆◆ 「新美くん、今日の放課後遊ばない?」  登校して早々、女子と男子の混合グループに声をかけられた。  転入してからというもの、遊びに誘われない日はなかった。自己紹介がわりに代わる代わる遊びに誘ってくれるクラスメイトの気持ちが嬉しくて、新美は出来る限り応えるようにしていた。  人間として興味を持ってくれたわけでなく訳あり気な自分への同情心からだったとしても、仲間外れにされるよりはずっとよかった。おかげで未だ慣れない新しい苗字で呼ばれることにも多少は馴染んできたのだ。 「うん、遊ぶ。何をするの?」 「秘密。放課後、下駄箱で待っててね」  今までにない誘い文句で、期待と緊張に胸が弾む。その日の授業はどれも注意散漫で、放課後までの時間がいっそう長く感じた。  少し日が傾いてきた午後3時、朝声をかけてきたメンバーと合流した。場所は教室。男子が2人、女子が3人、円陣を組むように並んで、それぞれ用意したものを取り出して——————えええええええええあああああああああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ ◆◆◆ 「新美さん?」  烏丸が眉をひそめて顔を覗き込んでいた。今自分がどこにいるのかを思い出すのに数秒、何をしていたかを思い出すのに数秒、烏丸の表情が不快感や苛立ちを表しているわけではないことを理解するのに更に数秒かかった。 「大丈夫ですか?」  烏丸が言うには話している途中に突然、一点を見つめて動かなくなってしまったらしい。  じわりと首に浮かぶ汗を拭い、すっかり薄くなったドリンクを飲み干してもまだ嫌な気分が続いている。 「ああ、うん、大丈夫……。でもごめん……ちょっとうまく思い出せなくて」 「構いません、そこから先は思い出せますか」 ◆◆◆ 「お前に触ると呪われるって本当か?」 「呪ってみろよ」 「教頭先生が事故にあったの、お前のせいだろ? 事故の前に一人で呼び出されてたよな」 「どうせならうちの担任呪ってくれたらよかったのに」 「お前のことどついた宮沢、お前のせいであれ以来変になっちまったんだよ」 「おー。宮沢、目の前にいるのにお前のことだけ見えねえんだ」 「最初はそういう遊びかと思って付き合ってたけどよ。あいつ、お前のこと自分だけには見えない幽霊だと思っておかしくなったんだぞ」 「どうしてくれんだよ」  あまり思い出したくない記憶だ。  遊びに誘われたあの日以降、クラスメイトの態度は一変した。声をかければ返答はあるし、授業でグループを作る時も仲間外れにされることはないが、転入初日よりも遠巻きにされているような距離を感じるのだ。  ただでさえ孤立しやすい立場であることは自覚していたので、言葉や態度には人一倍気を付けてきたつもりだ。  何か特別なきっかけがあったのかとも考えたが心当たりはない。勇気を出して何がいけなかったのか聞いて回ったこともあったが、皆一様に言葉を濁すばかりで、何も教えてもらえない。  腫れ物に触るような扱いをされて、いじめの実態がないため相談をすることもできず、多大なストレスで体調を崩すことも多くなった。  それだけならまだしも、「はみ出し者」により敏感なギャングエイジどもに目をつけられてしまったのが運の尽きだった。  大人には相談できず、友人もいない、腫れ物扱いの方がよほどましだと思ってしまうような日々が続いた。  そんな矢先だ。  自分に対して不快なことをしてくる人間が消え始めたのは。  弁解も何もないが、教頭先生が事故に遭ったのは本人の脇見運転のせいだし、乱暴なクラスメイトが自分を居ないもののように無視したのは単に根性が悪いからだ。  確かに、誰も入ってこない理科準備室で、優しい顔をしながら自分を裸にしてあちこちを触ってきた教頭先生は気持ち悪かったし、宮沢が自分を目の敵にして辛く当たるのはとても嫌だった。  でもそれが何だと言うのか。  自分はただ「放っておいてほしい」と願っただけなのだ。  たったそれだけで、大人が脇見運転で事故に遭ったり、乱暴なガキ大将が認知に支障をきたしたりするだろうか?  自分にすら仕組みが分からないものの責任を問われたところで、どうしようもない。 「あ?」 「なんね、聞こえんばい」  囲まれた内側でサンドバックのようにどつき回され、真っ先に自分の境遇を呪いたくなった。  教室のあちこちから上がる「やめなよ」の意味を考える。どうせ、皆自分ではなくこいつらの方を庇っているのだと思うと、油に引火したように怒りが燃え広がる。 「そう思うなら僕のことなんて放っておけばいいだろ。頼むから放っておいてよ」  翌日から彼らは、もう新美南兎(にいみみなと)を見つけられなくなった。  果たして彼の『願い』は叶えられた。

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