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北鹿渡秋白

「なあ、お前、いるよな?」  いつものように前から来た者を避けようとして、そいつに声をかけられた。  放っておいてくれと「願って」以降、クラスメイト達はその通りにした。  「放っておく」と言っても、言葉の通りではない。正しくは、新美(にいみ)の姿や声はおろか、筆記や点呼された新美の名前さえも知覚できなくなったのだ。  呪いなんて馬鹿馬鹿しいと思っていたが、今この状況を言い表せる言葉は、それ以外にない。  呪い。  やり方はどうであれ、新美の願いは成就したことになる。  新美の存在を認識できる者はこのクラスにはいない。  自分を目の敵にしていた宮沢の精神状態も穏やかになり、教室にはかりそめの平和が戻った。  当然、その恩恵も弊害も新美にふりかかる。授業でもグループワークや、ペアを組んで行うものには参加出来なくなる。毎回、教師に何と言って誤魔化していたのか、今となっては思い出せない。  新美の姿はクラスメイトには何もない空間と認識されている。したがって新美が目の前にいようと避けることなくまっすぐ向かってくる。  当然ぶつかられるが、何もないところで接触の衝撃と痛みを感じるのは、ちょっとした恐怖体験だろう。複数人が体験すればたちまち「学校の七不思議」の一つに加えられてしまう。  自分の存在がクラスメイトにいらぬ混乱を巻き起こすことになると分かれば、新美は対処に動くしかない。  誰にも知られず、誰にも顧みられない、虚しい努力。  こうなると、生きていようが幽霊と変わらない。  いじめられていたことを懐かしく思う程度には、この境遇が苦痛だった。 (確かに『放っておいて』とは願ったけど、こういうことじゃない……。あんなこと、『お願い』するんじゃなかった)  「願い」は不可逆なのか、元に戻して欲しいと懇願してみても状況は変化しない。  無用な混乱を巻き起こさないため、新美にできるのは、自分の存在が消えたクラスに馴染むことだけだった。  そうしてクラスメイトの急な方向転換や突進を避けるのも上手くなってきた頃のことだった。  話は冒頭に戻る。  避けるべき障害物が話しかけてきたので驚いたし、戸惑った。  咄嗟に返事が出来ずにいると、相手は特に断りもなくペタペタと新美の肩や手を触り出した。 「あ、触れる。やっぱりお前おばけじゃなくて、人間だろ? そこにいるんだよな?」 「うん……」 「おれ、北鹿渡秋白(きたかどあきしろ)。転校生の新美だよな?」  ほんの少しカールした黒髪と大きな黒目が、中性的な見た目をより強調していた。まだ変声期の兆しすらない高い声が存外にきれいで、新美の心臓を震わせる。 「うん」 「しばらく風邪で休んでたから、何があったかよく知らないんだけど……どういうことなの、これ」 「分からない。みんなは僕のせいだって……」  学校で同年代の誰かから話しかけられることなんて久々だ。喜びを感じる余裕はなく、貼りついた唇をもたつかせながら答える。  「願った」ことについては話そうか迷ったが、北鹿渡を完全に信用したわけではないのでまだ黙っていることにした。 「もしかして、あの時のことか?」  北鹿渡には思い当たる節があるらしい。  クラスメイトが急によそよそしくなったのは、やはり自分が何かまずいことをしたせいなのか。原因を知りたいが、反面耳を塞いでしまいたくなる。 「おれは————なんて信じてないし、あんなの偶然だよ。おれは気にしてないからな」 「うん、ありがとう」  神経が太いのか、細かいことを気にしない質なのか、北鹿渡は人からどう見られるかを勘定に入れないタイプだった。  もしくは、寄ってたかって1人を仲間外れにしている(ように見える)クラスメイトに見切りをつける正義漢だったのかもしれない。  クラスメイトからすれば誰も居ない方向に向かって話しかけ続ける北鹿渡は奇妙に映っただろう。それこそ何かにとり憑かれているかのように。  北鹿渡を友人と思っている人間は大勢いたけれど、彼が優先するのは新美だった。  最初は純粋に感謝だけだったのに、北鹿渡につれなくされて残念がるクラスメイトを見ていると密かに優越感が湧いたものだ。  自慢する相手はいなかったけれど、北鹿渡さえいればそれでよかった。 (ああ、北鹿渡がずっと一緒にいてくれたらどれほど幸せだろう)  存在を忘れ去られ、幽霊のように教室を漂っていた自分を見つけ出してくれた彼は、まぎれもなく特別な人間だった。  『願う』ことで不快な人間を遠ざけられるのなら、その逆も可能なはずだと思い至るのに大して時間はかからなかった。  * 「新美の親は離婚する直前どうだった? おれんとこ、そのうち喧嘩でどっちか死ぬかも……」  以前からその兆候はあった。  北鹿渡の両親はかねてから不仲であり、最近はそれを隠そうともしなくなったのだと聞いた。口論の内容から察するにそれぞれ不倫や借金をしているのだという。  日に日に悪化していく状況を北鹿渡から聞いては、彼を慰めるのが日課になっていた。 「大丈夫だよ、離婚した後の方が仲良くなることもあるからさ……」 「ほんと?」 「うちはそうだった」  姿の見えない新美との会話を同級生にからかわれても一向に気にしなかった彼が、ここまでひどく落ち込むなんて。涙を滲ませながら吐露する北鹿渡の横顔に、何度胸が締め付けられたことか。  半分は純粋な同情、もう半分は北鹿渡の秘密を知ることが出来た高揚だった。肩にもたれて泣く北鹿渡の姿に感じたのは、ほの暗い喜びに違いなかった。  薄々気づいていたが、北鹿渡が新美に興味を示したのは、親の離婚を経験したからなのかもしれない。新美はいずれ自分に訪れる破綻の姿だから。  利用されたと思わないでもないが、北鹿渡と一緒にいられる理由が一つでも多くあるのなら、それで構わなかった。 「北鹿渡、ずっと一緒にいようね」 「え……」  口をついて出た本音があまりに直接的で、顔が熱くなる。  相手の表情が何かを期待しているように見えるのは、自分の欲目だろうか。慌てて言い回しを訂正する段になって新美はようやく、その感情の名を自覚した。 「親が離婚したら離れ離れになっちゃうかもしれないけど、ずっと友達でいようね」 「うん、約束な」  北鹿渡に対して自分の下半身が反応するのはあまり良くないことなのだろうと、幼いながらも察しはついた。彼に対して抱く感情を打ち明けてしまえば、今の関係は終わってしまうだろうとも。  北鹿渡との友情と結ぶべき実のない思いは天秤にかけるまでもない。迷わず前者をとる。  照れくさそうに小指を絡め合わせる彼を、何度も振り返りながら家路につく彼を、恋の熱で目に焼き付けた。  北鹿渡の両親が、刃傷沙汰の末、家に火をつけたのはその夜のことだった。

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