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サードマン顕る

◆◆◆  寝不足の疲労というには強すぎる倦怠感に襲われ、新美(にいみ)は座った姿勢を保っていられなくなった。  北鹿渡秋白(きたかどあきしろ)の記憶を掘り起こすことが、精神に多大な負荷をかけているかのようだ。つらいこともあったが、決してトラウマになるような出来事などなかったはずなのに。  いつの間にか吹き出した汗に、目も開けられなくなり、不快感が募っていく。  烏丸(からすま)に断り、ソファに横たわりながら話を続ける。 「夜、秋白が電話してきて、『助けて』って言われた。後ろで大きな物音と叫び声が聴こえたから、どうなってるのか聞いたら、両親が刃物を持って、家中酷いことになってるって…… 俺どうしていいか分からなくて、慌てて飛び出していったら、あいつの家が真っ赤に燃えてた……」  今でも秋白の悲痛な声が耳に染みついている。  あの時の慰めはみんな嘘だったのかと責め立てられるような気持ちで駆け出したのを覚えている。 「秋白を助けに行こうとしたら、火のついた建材が飛んできて、顔の右側と、右半身のほとんどに火が燃え移って……俺も救急車で運ばれた。気づいたら病院のベッドの上にいて、なんもすることなかったから、秋白が助かりますようにって、ずっと『願って』た。  虫がいいよな、もう絶対に不用意な願い事をしないって決めてたのに。秋白のためなら何が起きてもいいって思ったんだ」  寝言のようにか細い声をなんとか張って、言葉を続けた。決して明るくなかった少年時代の、数少ない誇らしい思い出だ。  晴々しい気持ちとは裏腹に、倦怠感はいや増して、どこもかしこも重苦しくなっていく。 「そうしたら、『叶った』」 「何がです?」 「秋白は奇跡的に無傷だったんだ」 「……」 「あの電話の後うまく逃げられたみたい。俺の火傷はほら、この通り……だけど、これは秋白を助けるための代償だったと思ってる」  ボールペンが紙の上を滑る音がする。  烏丸は今までも時折何かを書き留めていたが、今回の筆記はやや長いようだ。 「新美さん、先ほどから『願う』とか『叶う』と仰っているのは何なんですか?」 「あぁ……転校した後からのことなんだけど、俺が『願った』ことは、なんでも中途半端に叶っちゃうんだ」 「あなたは何らかの力を行使している自覚があるのですか?」 「多分違う……サードマンのおかげだよ」  烏丸が短くペンを走らせた。 「サードマンとは、『サードマン現象』のサードマンですか?」 「そう。多分、今まで俺の『願い』が叶うように導いてくれたのは、俺のサードマンだと思う……」  ふと、心地よい冷たさが額や頬を撫でていった。  うっすら目を開けると、烏丸がハンドタオルで汗を拭ってくれているのが分かった。何か言いたげだが、鉄の意思でそれを押し留めているようだ。  ありがとうと礼を言うと、彼は険しい表情のまま「いえ」と短く返しただけだった。 「どこまで話したっけ。そうだ、サードマンだ」 ◆◆◆  北鹿渡家の火事以降から大学入学までの記憶は断片的だ。元々さっぱりとした性格だったはずの北鹿渡は、スキンシップというには際どい触れ方が増えて、口数は少なくなった。  このおかしな態度はきっと両親の諍いや火事の恐怖に対する心理的な反応なのだろう。新美はそれらの変化を全て受容した。  ひらがな五十音などが書かれた奇妙な紙と、十円玉を使って会話をすることも、筆談のようなものだと思って受け入れた。  火傷の痕を長い舌で執拗に舐められるのも、北鹿渡の手が自らですらあまり触らない場所まで弄るのも、彼のなぐさめになるならと許した。  恐怖を罪悪感でねじ伏せるのは、数年来両親の前で本音を抑え込んできた新美には容易かった。  元々、北鹿渡に恋情を抱いていたのだからと、これしきのことで彼に対する負い目が消えるならと——  * 「サードマン現象って知ってるか」  虫食いの記憶の中でも、かすかに音や色や匂いの残っているような、多少ましなものがある。  そこは高校の生物室だった。  そして、その人は生物の教師だった。  常に仏頂面で、板書がほとんどない割に授業の進みも早く、生徒へのサービス精神に満ちた教師陣からは浮いていた、定年間近の無愛想な老人。  それが逢沢(おうさわ)という教師への評価だった。  新美は相変わらず北鹿渡とばかりつるんでいた。中学、高校と、苦手なりに頑張って周囲の人間に話しかけてみたりしたものの、まともな友人関係が築けた試しがない。そんな交友関係の乏しさ故で、担任と生物部の顧問であるというだけの逢沢が、数少ない身近な他人の1人なのだった。 「サード……? いえ、知らないです」  新美は正直に答えた。  予想の範疇だったのだろう、逢沢は一度頷いて続きを語った。 「事故や遭難など生命の危機的状態に陥った者を勇気づけ、生還へ導く存在が現れることがあるのだと」  生物教師が興味を持つにしては、少しオカルト味が強すぎやしないだろうか。それとも、生命の神秘の探究の一つとでも言うのだろうか。  でもそれが、生物室のネズミと関係あるとはとても思えなかった。  生物室の一角は床から新美の目線まで縦横数列に積まれたカゴで占められている。小さなネズミ達が元気に動き回っているが、ところどころ生命の気配が消えている。誰かがネズミを逃したか、盗んでいるか、あるいは……。新美が入部してから、こういうことは時折あった。  度重なるネズミの消失を逢沢に報告したはずだったのに、振った話題は空中分解して「サードマン現象」に着地した。  逢沢は構わず話を続ける。 「雪山での遭難や2001年の同時多発テロ、海洋冒険中の漂流、医大の試験勉強中なんてのも……サードマンの報告は意外と多くある。その実態は人間に備わっている生存本能の為せる技であるとか、極度のストレスに晒された人間の無意識の対処行動とする説が有力と言われている。『守護天使』など高位の存在であるという解釈もあるらしい」  しかつめらしく、理路整然とした語り口はまるで彼の授業のようだ。板書をほとんどせず口頭で内容を説明しまくる授業スタイルは、当然というか、生徒からは不評だった。  新美は例外で、内容の面白さに気付いてからは、逢沢を敬遠する気持ちはなくなっていた。 「へぇ……先生って意外とオカルトな話題が好きなんですね」 「好きとは一言も言ってない」 「あ、すみません……」  ばつが悪くて首をすくめると、逢沢は気を悪くした風でもなく、いつもの仏頂面のままだった。仏頂面で機嫌がいいも悪いもないだろうが……  逢沢は睨むような目つきで新美をとらえた。 「お前の『それ』は、良いサードマンか?」  沈黙が横たわる。アカネズミ、ヒメネズミ、カヤネズミ、ハツカネズミ、ハタネズミ、スミスネズミ、ヤチネズミ……逢沢が収集したネズミ達のうごめく音だけが生物室を静かに満たした。 「……え、えっと」  逢沢に言われていることの意味が分からなくて、頭の中で言葉を反芻した。  「お前の」「それは」「良いサードマン」「か」?   だめだ。一つ一つの言葉は理解できても文章としての意図がまったく汲めない。  思考を巡らせていて気づいたが、少なくとも逢沢は自分に「サードマン」がついている前提で言っているようだ。 「僕にサードマンがついているんですか?」  いつの間にか隣に北鹿渡が来ていた。  それを合図にしたかのようにネズミ達が一斉に音を立てるのをやめた。 「ほら。あれのことだよ」  北鹿渡が耳打ちする。  思い当たるのは自分の身に起こる奇妙な現象のことだ。 (逢沢先生はおそらく、僕が何かを『願う』と中途半端に叶ってしまう現象のことを言っておられるのだろう。 なぜそのことを先生が知っているのかは分からないが……)  やり方はどうであれ、窮地に陥った新美を救ってくれたのは事実だ。それがサードマンなる者の導きなのであれば、今までの奇妙な出来事も説明がつくような気がした。  年齢相応にしわの刻まれた渋面。逢沢の顔は今まで見たどの人間の表情とも違って見えた。  不躾な同情や興味の視線、煙たがり、煩わしさを隠さないため息、怯えや忌避感——いくつもの顔が新美を通り過ぎて行った。  逢沢の仏頂面は、どちらかといえば「心配している」という感情が近いような気がした。  この人になら、全てを打ち明けても受け入れてもらえるのではないか。  ふいにそんな考えが胸をよぎったが、かぶりを振ってすぐに打ち消した。  逢沢先生にすら見捨てられたら、もうまともに生きていける気がしない。 「……悪用はしてませんよ。ただ怖い人にいじめられたりしたら『願って』、少しだけ叶えてもらうんです」 「何を」 「僕に構わないで……放っておいて、って」  逢沢は何も言わなかった。しばらく沈黙が続いて、ネズミ達の小さな活動音が徐々に復活した。  いつの間にか北鹿渡はいなくなっていた。 「お前は態度も真面目だし勉強も頑張っている。『サードマン』がいなくてもしっかりやっていける。それを忘れるな」  口調はますます苦々しく、眉間のしわをより深く刻みながら逢沢は言った。  それが何か別の意図を持った言葉であるのは何となく分かったが、真意までは読み取れない。  思いがけない優しい言葉だけが耳に残った。

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