11 / 16

憑物落とし

 テーブル2脚とカラオケの機械を部屋の外に移動させ、用意した折りたたみの祭壇を組み立てる。 「烏丸(からすま)さん……東樹(とき)さん、助けて」  十字架、ラテン語の祈祷書、聖水、聖油、聖母マリアを描いた絵画……  烏丸がカバンから次々道具を取り出している傍ら、新美(にいみ)譫言(うわごと)のように「助けて」と繰り返していた。  その両腕は拳から上腕まで革の拘束具により覆われ、背中で固定されている。  身じろぎするたびに革同士の擦れる音と金属の擦れ合う音とが響き、新美の訴えが後に続く。 「助けて、東樹さん、お願い……これを外して」  新美は尚も烏丸に追いすがるようにすすり泣いた……が、涙の一滴もこぼすことなく表情は虚ろだった。 「新美さんは多少の心神耗弱(しんしんこうじゃく)傾向や一部認知機能の変化はあるものの、精神症状の出現はなく精神疾患の線は薄い。具体的には統合失調症や解離性同一性障害などですが典型的な症状は認められず可能性はごく低いでしょう。  来歴からアルコールや薬物の継続使用も考えにくい。  神経学的所見からてんかんや抗NDMA受容体脳炎も否定的。そして複数の憑依の兆候を確認。であれば」 「東樹さん……助けて、助けてよ」  不自由な体を転がしてわざと床に落下し、ずるずると這いながら烏丸の足元にたどり着いたかと思うと、新美はキャソックに頬ずりした。烏丸を上目遣いで見つめながら、はあはあと荒い息を繰り返して乾いた唇を舌で湿す。  新美にあるまじき婀娜(あだ)な振る舞いに、烏丸は眉一つ動かさず冷ややかに見下ろすだけだった。 「ねえ、お願い……体なら貸してあげるから」 「その人はお前の器ではない」  烏丸が十字を切り、部屋全体と新美の体に聖水が撒かれた。  水滴を受けた新美の眼が、再び烏丸を捉える。先程とは別人の形相に獣のような敵意をたたえ、明らかに新美のものではない叫びが放たれる。変声機でも使ったかのような可聴域ぎりぎりのこもった声は、新美どころか人間のものとは到底思えない。 「雑兵(ぞうひょう)が」  口角から泡を吹きながら、野犬のように新美が——正確には新美にとり憑いた何者かが唸る。  CDプレイヤーに刺してあったヘッドホンのケーブルを強く引っ張ると端子が勢いよく抜け、讃美歌が溢れ出した。 「大天使聖ミカエル、戦いにおいてわれらを護り、悪魔の凶悪なる謀計(はかりごと)に勝たしめ給え。天主のかれに命を下し給わんことを伏して願い奉る——————」  聖句を3度繰り返す。  新美は膝と額をつき、床に這うような姿勢のまま身体を震わせている。噛み締めた歯列の間から空気が漏れて、不快な響きが続いた。 「父と子と聖霊の御名(みな)によって汝に命じる、汝の名を示せ」 「『われらをあわれみたまえ』、はァは……()つ国の坊主の文句は間怠(まだる)い……あの歌や唐絵(からえ)は何だ? もてなされているようで悪くないが」  烏丸の質問を無視して、新美南兎(にいみみなと)に巣食う何者かはけいれんのように体を揺らした。しばらく観察すると、それは笑いを堪えてのものだとわかる。  悪魔が嫌う聖画や讃美歌は悪魔祓いにおいて奏功するが、この様子だと相手に効果があるようには見えない。  狂ったような笑いが次第に大きくなり、ついに讃美歌をかき消す。 「父と子と聖霊の御名によって汝に命じる、この者の体から出て行け!」  十字架を掲げ語気を強めるが、憑霊(ひょうれい)された新美はくぐもった哄笑を続けている。床に伏せる相手に近づき、よく通る低い声で淀みなく続けている聖書の朗読にも反応はなく、手応えを感じない。 「これは幾年も前からわたしのもの。後から来たお前に出て行けと言われる筋合いはない」 「父と子と聖霊の御名によって汝に命じる、この者の体より——」  憑霊は新美の身体を弾かせるようにして前進させた。跳躍のように足を屈伸させ、頭頂部が烏丸の鼻に激しくぶつかる。  押し留めようとする手に食らいつき、頭でも肩でも膝でもめちゃくちゃに振り回して突進してくる相手に押され、烏丸は後退を余儀なくされる。革の拘束具がぎちぎちと嫌な音を立てた。  狭い個室の壁へ背中をしたたかに打ちつけられ、息の詰まるような衝撃に呻く。加えてとろとろと流れ出した鼻血が口に入り、呼吸がしづらい。  憑依の影響なのか、新美の痩躯からは想像もつかないほどの剛力で烏丸の顎下に頭を潜り込ませて押さえつけている。縫い付けられたように動けない。壁が音を立ててぎしぎしと歪む。  つま先を新美との体の間に潜り込ませて引き剥がすことを試みるが、足の裏に新美の肋骨のしなりを感じ、烏丸は舌打ちした。  憑霊はその様子を見逃さず、愉快そうに頭を擦りつけた。 「随分手心を加えるのだな。『これ』が気に入ったか?」  拘束具の金具が引きちぎられた。  固定を失った革細工を脱ぎ捨て、自由になった新美の両手が烏丸を更に強く拘束する。 「もてなしへの礼としてお前に貸してやってもよい」  憑霊が新美の端正な顔を歪ませながら舌を大きく見せびらかす。  下衆な仕草に歯噛みすることしか叶わず、烏丸は必死で聖句を絞り出した。 「父と子と……ッ、聖霊の……」 「お前の言う父と子とは誰なのだ?」  憑霊が、烏丸の鼻血を舐めて低く(わら)った。 (案の如くか。いかな低級霊とはいえこの土地のものには聖句が通じない)  かつてこの国にもキリスト教の宣教師がきたが既に仏教等の宗教が根付いていており、当時の政治の配剤も手伝ってか土地全体へのキリスト教の定着は叶わなかった。  なにより既に日本には土着の神々が御座(おわ)すのだ。それは信仰としてだけでなく人々の精神の深い部分にも根ざし、内外に影響を及ぼしている。良きにつけ悪しきにつけ、新美が耳を傾けやすいのは、彼に憑いている者の方であろう。  聖句やカトリック教の祓魔の儀式が、土着の神々やその眷属に効かないのも道理である。    耐えきれず聖書を取り落とし、新美の手首を掴んで引き離すことを試みる。手首は思ったよりもずっと薄い。このまま無理に捻れば、簡単に制圧できるだろう。圧倒的に烏丸が有利だったが、それ故にためらいが生まれた。  隙をつかれ、烏丸は更に強く壁に押しつけられる。 「こんなうらなり、お前の膂力(りょりょく)なら軽く弾き飛ばせよう。わたしを調伏したいのならとっとと腕でも足でもひしげばよいものを」 「黙れ……」 「それとも、あははァ、そうか、惚れた弱みか。わたしのいない間に味見くらいはしただろう?」  烏丸の手が胸ぐらに伸び、手首の回転と共に素早く新美の服を巻き込む。一瞬の後に新美の体は背中から床に叩きつけられた。  すかさず両手を背中に持っていき、親指どうしをケーブルタイで拘束する。 「その人の口で下卑た言葉を並べるな」 「それとも、くわえ込んだのはお前の方か? あの男らにさせてやったように」  目を三日月のように細める憑霊の微笑みに血液が煮えたぎる。新美南兎本人の意思とは関係ないと分かっていても、一歩間違えば怒りが彼に向かってしまいそうだ。  効果がないのは承知で烏丸は聖書の一節を暗誦した。案の定、憑霊はそれを無視して烏丸の後ろ暗い記憶を嬉々として語り出す。 「知っているぞ。女の味を知らない坊主どもが代用品に選んだのがお前だ。戒律を盾に拒めばよいものを、お前も楽しんでいたではないか……」 「黙れ」 「お前の信ずる神は衆道を禁じているのではなかったか? 自分だけは清く正しいふりをして、神も信徒も欺ける心の臓を、その胸かち割って拝んでみたいものだわ」 「黙れと言っている!」  神学校時代、上級生に呼び出され、素直に従ったのがいけなかった。猿ぐつわを噛まされ、複数の上級生に代わる代わる慰みものにされた忌まわしい過去を、誰かに話すわけがない。  とり憑かれた者が知り得ない事実を知っている。憑依の徴候の一つであると理解していたにもかかわらず、烏丸の怒りは目の前の男へと向かった。  幅広の手が、男にしては細い新美の首にしっかりと巻きつき絞め上げる。力の入れ方を変えれば、折ってしまうことも容易いだろう。 「苦し……烏丸さ……」  首を絞める手を注視していたために、新美の変化に気づかなかった。  弱々しい新美の声が聞こえてようやく烏丸は我に返った。先程の禍々しい表情は消え失せ、今の彼はあわれにも苦痛に喘ぐしかない、ただの被害者だ。焼けた鉄に触れた時のような勢いで飛び退くと、新美は力なく転がった。 「新美さん!」  心が波立つ。いつもの冷静さは今や消え失せていた。拘束され、無抵抗の新美の首を絞めてしまった罪悪感で何も考えられない。  脈拍と呼吸を確認しようとした時、気絶したままの新美の口から声が漏れ出した。よく聞き取れず烏丸が右耳を近づけると、後頭部に重い一撃をくらい、そのまま壁に激突した。 「なぜそうまでして『これ』を欲しがる」  目の前が霞む。至近距離にいるはずの新美を視認するどころか、自分が今部屋のどの位置にいるかすら把握できない。  半死半生の烏丸を殺さずにおくのは、ただの気まぐれなのだろう。気分が変わるまでは時間を稼いで回復に努めるしかない。 「欲しいわけではない……」  もがいた拍子に指先を何かがかすめた。周囲に悪魔祓いの道具が散乱している。  砕けた十字架、聖書は破れた上、血に塗れているようだ。カバンの残骸の先にこぼれ落ちた中身も転がっている。 「何者であろうと……彼の人生を奪うことは許されない」 「ほお。わたしが手を貸さねば『これ』はもう三度は死んでいるが、それでも同じことを言うか」 「なぜ……その人に執着する」 「執着? 『これ』はいずれまた死なぬ程度に焼いて、焦げた皮膚を舐めすすって楽しむのよ。人の子は案外もろいでな」  上機嫌の憑霊が語っている内に、視界は大分回復したようだ。体中から痛みの信号がひっきりなしに飛び、満足に立つことも出来ないが不思議と思考は固く冷えていた。 「貴様はやはり紛い物だ」 「頑張るなあ。死に体でけなげに吠えることよ」 「私は拒んだ」  耳まで裂けそうなほど口を歪めて笑っていた憑霊から表情が消えた。  口の中に溜まった血液を吐き出すと、烏丸はふらつきながら立ち上がった。 「女人の代わりにされたのでもない。奴らが戒律を破ったことを糾弾された時、私に証言された腹いせだ」 「……」  思い出したくもない過去だが、烏丸は今一度自身のトラウマを引きずり出した。受け入れてしまえばいっそ楽になれただろう生理的な反応と、自分の心がどこまでも乖離する、ただただ苦しかった時間を。  憑霊の語った内容は大筋で一致していたが、細部は異なっている箇所が多い。新美の「願い」の実現が中途半端であることも鑑みれば、この憑霊の能力の限界は大したものではないはずだ。 「せいぜい対象の意識を逸らす程度の力しかないのに、よくもここまで長らえたものだ。“サードマン”」 「何だと?」 「逢沢(おうさわ)教諭がお前につけた名だ」  右手に持った(かめ)から灰をひとつかみ取り出し、ドアを囲むようにコの字型の線を書く。背後から見ればうなだれているようにしか見えず、新美の憑霊——“サードマン”はふんと鼻を鳴らした。 「何のつもりだ」 「さっきはああ言ったが、お前に奪われるくらいなら私がもらい受ける」  ペンがない。しかたなく、自分の額から流れる血液を指にとり、ドアのガラス部分にひらがな3文字を手のひら大に書いていく。 「『こっくりさん』らしくいこうじゃないか」

ともだちにシェアしよう!