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第2話
「どうぞ。トイレはそこ……ですけど」
「まあまあいいからいいから」
エレベーターに乗って家に着き、鍵を開けて中に入ったけど那月さんはトイレには行かずそのまま僕の背中を押してきた。そんな電車ごっこのような格好でリビングまで進む。
トイレに行ってる間にコーヒーでも入れようと思ったんだけど、どうしたんだろう。
「那月さん?」
「座って」
なぜか那月さんに言われ、首を傾げながらソファーに腰を下ろす。
とりあえずどうぞとこちらもソファーを勧めると、那月さんは僕の斜め前に座った。
「さて、天河朝陽くん」
再び掲げられたのは僕のバック。
「これは一体なんでしょう?」
「……」
中身の確認をするのかな、とのん気に構えていた僕は、次の瞬間石にでもなったかのように硬直した。
那月さんがリュックから取り出したものを見て、なにも言えなくなってしまう。
それは、薬。
撮影の間に行った病院でもらった、フェロモン抑制剤。主にオメガがヒート時にフェロモンを抑えるのに使う薬で、特にそれは普通に処方されるよりもきつめのものだ。
いつもは真雪さんに持っていてもらって、帰ってから渡してもらう。だけど今日は色んなことが遅れて噛み合わなくて、焦って自分のリュックにそのまま詰めてしまったんだった。
そうだよ。どうして僕はそのことを忘れていたんだ。
しかもそんな日に限って荷物を取り違えるなんて。
「そ、れは、その」
「処方薬に名前があって、診察券もあって、他人の物とは言えないよな?」
普通アルファもベータもそんなものは使わない。ヒートが来ないんだから抑える必要もない。
だからなんでそれを持っているかなんて、わかりきった単純なこと。
どうしよう。どうしよう。
「つまり、いかにもアルファって顔してる王子様は、実はオメガだった、と。そういうことでよろしい?」
紛れもないアルファに目の前で突きつけられた事実に、ただ俯くように頷いた。
それは僕の隠さなきゃいけない秘密だ。
ヒートの時に放つ無差別なフェロモンのせいで周りを、特にアルファを惑わし誰彼構わず誘惑するオメガ。
他よりもアルファの多い芸能界で、オメガは忌避される存在で、ごくごく少数いる人たちもみんな番を持っていてフェロモンを放つことはない。
つまりフリーのオメガがどれだけ危険物扱いされているかということ。
だからこそ僕は自分がオメガであることを隠して仕事をしている。
それを知っているのは、事務所の社長とマネージャーである真雪さんのみ。
中学の時から所属している事務所で、高校に入って検査を受けオメガだとわかった時にまず相談し、その時に隠して仕事するべきだと言われた。
幸い高い身長と女性的すぎない容姿から見た目でオメガだと思われることはなく、今まで疑われたことはない。
発情期と言われるヒートの一週間はマネージャーの計らいであまりハードな仕事は入れないようにしてもらっている上に強い抑制剤のおかげでフェロモンが洩れることもない。
さすがに、少しもフェロモンが香らないように無理やり強い薬で抑え込んでいるせいで少々の体調不良は否めないけれど、それぐらい仕事の楽しさに比べればなんてことない枷だ。
だからこそ、こんなミスしちゃいけないのに。
ああもう本当にとんでもない油断だ。
このことを誰かに知られたらとても困るし、事務所にも迷惑をかけてしまう。
アイドルが、なによりキラキラすることができなくなる。
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