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第6章:浮所類 〜水族館〜

雲ひとつない秋晴れの空の天色と 穏やかな東京湾の薄藍色の間に 浮かんでいるような 巨大なガラスドームの建物が目を引く。 あの夜から2週間後の日曜日、 俺は都内にある水族館にいた。 ドームの真下は 水族館のエントランスになっていて、 中に入り透き通った天井見上げると、 差し込む太陽の光でとても眩しい。 このような家族連れやカップルなどで賑わう 施設に来たのは 学生の頃の修学旅行の時以来だろうか。 「今日はわざわざありがとうございました。」 「いえ。爽太君と約束しましたから。」 遡ること3日前の朝、 伸びすぎた髪のセットに手こずり、 少し遅めに家を出た際 1週間半ぶりに日向さんと顔を合わせた。 「おはようございます。」 この間のこともあり、 伺うように挨拶をすると、 「おはようございます。」 と日向さんは予想通り気まずそうに返した。 「先生おはようございます!!」 そして日向さんの横にピタリとついていた爽太君も 予想通り元気よく笑顔で挨拶を返した。 あの夜のことを 爽太君の前で話すわけにもいかないよな・・・ とは言っても、弁明するのもおかしいし・・・ それでもやはりあんな帰り方をしたってことは 俺が謝った方がいいのか・・・ などと一人でぶつぶつ考えている時、 爽太君は思い出したように 「そうだ!」 と大きな声で言い、俺のコートの裾を掴んだ。 「先生、三人でお出かけする場所、決めたよ。 水族館に行きたい!」 すっかり忘れていた約束を 爽太君はちゃんと覚えていた。 「へぇ、水族館か。どこの?」 「えーっとね、 マグロがいっぱいいるところ!」 爽太君の頭の中には その映像がくっきりと浮かんでいるのか とても楽しげな表情で俺を見た。 「爽太、先生だってお忙しいんだから、 そんな無理を言ったらダメだよ。」 その言葉は 間接的に俺に断ってくれと、 言っているのだろうか。 分からない。 「・・・俺は別にいいですけど、 日向さんは、大丈夫ですか?」 俺はこの間のことも、 全て含んだような聞き方をし、 日向さんに答えを委ねた。 すると日向さんは 俺の予想外の問いかけに、 数秒迷った上で 「・・・僕も大丈夫です。」 と小声で言った。 ガラスドームのエントランスから エスカレーターで下の階に降りると、 眩しかった外の光と 水槽のライトアップを際立たせるために 最低限まで落としてある照明との明暗差で 目が眩《くら》んだ。 どんよりとした空間の中 二人して同じような 黒のダウンジャケットを着ている 日向さん親子がぼやけて見える。 目蓋の開け閉じを繰り返し続けていると ようやく こちらを心配そうに見ている親子の顔が くっきりと見え、 その先には綺麗に展示された水槽が目に入った。 正直魚には興味なかったが、 一種の芸術作品として見るのなら 思ったよりも、楽しめるかもしれない。 「先生、行こう!」 爽太君は待ちきれなかったように、 突っ立っていた俺の手を引っ張り、 水槽の方へと駆けた。 爽太君は、 一つのものをじっくりと見るタイプらしく、 一つ一つの水槽で立ち止まっては 長い間観察していた。 俺たち大人はその後ろで、 多少退屈しながらも 爽太君のペースに合わせ進んだ。 「何をそんなに観ているの?」 俺が素朴な質問を投げかけると 爽太君は目を輝かせて、 「泳ぎ方。 全部違って面白いんだ。」 と答えた。 俺は屈んで、 爽太君の目線に合わせて、 爽太君の観ている『泳ぎ方』を観た。 確かに、じっくり見ると ヒレの細やかな動きの違いなど、 興味深いものがあった。 「将来魚博士になれそうですね。」 次の水槽に移り、 水槽に顔をつけながら観察する 爽太君の後ろで、 俺は日向さんに言った。 「動物園へ行ってもこんな感じで、 いつも回りきれないんですよ。」 「生物に興味があるんですね。 僕も確かに、 小さな頃は昆虫観察とか好きでしたね。 日向さんは何かありました?そう言うの?」 「僕は、生物系はちょっと苦手で、 普通に電車とかが好きだったみたいです。」 「男子は乗り物好き、多いですよね。 絶対通る道ですね。」 「爽太も一応乗り物にも興味はあるみたいですが、 鉄道博物館より、 動物園、水族館って感じで。 最近ではペットも飼いたいと言われ、 少し困っています。」 「日向さんちはペット可ですか??」 「一応そうなのですが、 爽太の子育てもろくにできていないのに、 ペットを育てるなんて、無理ですね。」 「子供がもう一人増えるようなものですもんね。」 俺たちが、そんな話に花を咲かせていると、 「ねー、二人は何のお話してるの?」 と爽太君はこちらに振り向いた。 「爽太君が、魚や動物が好きなんだね、ってお話だよ。」 「うん、大好き! ねー先生、次だよ! マグロの水槽!ほらほら」 そして、そう言って、俺の手を掴んで、急に走り出し 「もう爽太! 走らない。」 と、日向さんは後ろから俺たちを追った。 ウキウキしている爽太君に 連れられた先には、 丸い見学スペースを囲う 巨大なドーナツ型の水槽があった。 その水中には 爽太君の言っていた 大量のマグロが 大きな円を描くように グルグルと泳いでいる。 「へぇー・・・すごいなー。」 以前情報番組か何かで見たことはあったが、 思わず声が出てしまうほどの迫力だった。 「先生は見えてる? 僕は見えないなぁ・・・」 この場所は 水族館の目玉スポットなこともあり たくさんの人が密集していた。 身長が高い俺はどこからでもよく見えたが、 小さな爽太君は全く見えないらしく 前方へと向かうため 人波の中をどんどんと進もうとしていた。 手を繋いでいた俺はとにかく、 周りに気を配りながらついていくだけだったが その後ろを追っていた日向さんは、 ちょくちょく人混みのせいで、はぐれそうになっていた。 大人が迷子になることは、ないだろうけど・・・ と思いながらも、俺は、 まだ近くにあった日向さんの手を握った。 跳ね除けられることも覚悟したが、 日向さんは何も言い返さず 俺よりも少し温度の低い手で軽く握り返した。 爽太君は前方のちょうど空いたスペースに うまく滑り込んだ。 水槽の中だけが視界に入ってより鮮明にうつる 多様な青と銀。 その神秘的な眺めに、しばらくの間、気を取られた。 そんな中、 「パパと先生、仲良しだね。」 と爽太君から言われ、 「あっ!」 と互いに 繋いでいたことを忘れていた手を離した。 「これは・・・あの・・・えっと・・・ 人がたくさんいて はぐれないようにと・・・ わざわざ先生が気を使ってくれて・・・」 真面目に説明をしようとしている 日向さんがおかしくて、 俺はクスッと笑い、 「そうだよ、仲良しだよ。 爽太君とも仲良しだもんね。」 と、爽太君と握った手を挙げた。 「うん!みんな仲良し!」 ニコニコ笑う爽太君を見て、 日向さんの強張っていた表情も柔らかくなり、 「・・・うん、そうだね。仲良しだね。」 と言った。 その後、水族館を爽太君の思う存分楽しみ、 夕飯は家の近くのファミレスで一緒に食べた。 長かったようで あっという間に過ぎた一日も もう終わるのか ・・・と思いながら 家の前で別れようとした時に 爽太君が 「今日は先生とお風呂に入りたい!」 と繋いでいた俺の手をギュッと握った。 「爽太、今日は充分先生に付き合ってもらっただろう?」 日向さんはため息をつき、呆れ顔で爽太君を見た。 「でも、水族館で買った 魚釣りセットで一緒に遊びたいんだもん。」 「パパと遊べばいいだろう?」 「ヤダヤダヤダー! 先生と遊びたい!!!」 「・・・俺は別にいいですけど」 爽太君のわがままを全て聞くことも、 親子の揉め事に割って入るのも、 よく無いとは思いつつ 実際俺も離れ難かった。 「やったー!」 「本当によろしいのですか? お疲れでは無いですか?」 「大丈夫ですよ。」 「・・・そうですか・・・。 では、うちで・・・。 お湯溜めておきます。」 「はい。一旦帰って服とタオル持っていきます。」 「・・・あ、タオルはうちのを使っていただいて。」 「いいですよ。そちらの洗い物増やしたくないですし。 では、20分くらいしたら、 爽太君のおうちに行くから待っててね。」 「うん!楽しみぃ! 今日一日すごいいい日だなぁ!」

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