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第10話・好きなもの
陽が斜めに傾いた頃、ヴィクターは試験を終えていた。
まさか筆記というものがあるとは知らず、ヴィクターは内心青ざめたが、そこはそれ、諦めだ。ユージンは妙に嬉しそうにしていたから、実技の方は悪い結果ではなかったと信じたい。
もっとも、彼に聞いても「後でね」と笑うばかりで、テストの結果を教えては貰えなかった。
手続きをすると言ってユージンがその場を離れ、テオドア、ギルバート、ヴィクターの三人がその場に残される。
先輩二人の好奇たっぷりの目線にしばらく晒されてから、ヴィクターはなんとか声をあげた。
「私は何をすれば」
「ん?ああ、何してても良いよ!自室で休んでてもいいし……、ん〜……」
「食堂」
セオドアの短い一言に、ギルバートは指を刺して「それだ」というジェスチャーをした。
「食堂良いね!まだ行ってないでしょ、団員なら好きなの食べれるからさ」
声を弾ませたギルバートに背を押され、食堂まで案内される。
そうして、食堂の椅子に腰掛けてから実に一時間。ヴィクターは何もすることができずにいた。
「困ったねぇ……」
ギルバートも、すべすべとした白い肌を凹ませながら、頬杖をついて言う。
食堂の利用方法が分からなかったわけではない。ヴィクターはたしかに、団員からの注文を受けるカウンターに向かい、給仕兼料理人らしい男に声を掛けたのだ。
♡
「お、新人さん」
今思い返して見ても、その男の態度は好意的なものだった。
「さっきの見てたよ。カッコ良かったねぇ」
「そう、ですか」
「それに顔が良いよね、ヴィクターくん。あ、ヴィクターくんって呼んで良いかな?」
「……はぁ」
男の口から次々に賞賛の言葉が紡がれる。慣れない言葉の真意を掴みかね、ヴィクターは曖昧に笑うしかない。
いつ本題を切り出すべきかと迷っているうちにも男は何食わぬ顔で話を続け、二転、三転としたあとで、悪びれもせず食事の話へと戻ってきた。見事なものだな、とヴィクターは素直に思う。
「すげーな、あの話全部聞くやついるの?」と後ろでギルバートが耳打ちしている。
「で、何が食べたい?」男が問いかけた。
──その問いにヴィクターは、答えることが出来なかった。
ぽかんとした表情のまま固まったヴィクターを、料理人は訝しげに見つめた。
「黙ってちゃ分かんないよ」
はっとしたヴィクターは悩むポーズをとり、そしてもう一度真剣に考えた。自分の食べたいもの。
騒がしい食堂に独特の静かな時間が流れる。
「すみません、思いつきません」
しかし、考えた後もヴィクターの答えは同じだった。
「どーいうこと?好きな食べ物とかないの?」
食い気味に割り込むギルバート。
「馬鹿。平民出身だ。言いにくいこともあるだろ」
それを、テオドアが制する。とはいえテオドアも貴族の生まれで、平民の具体的な悩みなど想像がついているわけではない。
二人を見かねたように、もしくは見慣れたように、給仕の男はヴィクターの方を向いて語りかけた。
「料理名が分からなくたって、なにかしら食べたい食材とかあるだろ。ここは坊っちゃんも多いし、無茶苦茶に高いモノだっていいんだぜ」
ヴィクターがまた、5秒ほど顎に皺を寄せる。
「では、最も安い物を」
「駄目だね。そういう注文は受けない」
男の口調に今度は厳しさが混じって、ヴィクターは自分が誤ったのだと反省した。目の前の男はなにか信念めいたものに基づいて質問をしている。それならば真摯に答えなくてはいけない。
「もう一度聞くよ。食べたいものは?」
ヴィクターは、今度はゆっくりと記憶を辿った。
世辞にも裕福と言えるような生まれではない。食事らしい食事を口にする機会があるとすれば、葬式や祭事など、村で集まる時に囲む会食程度だ。
しかしヴィクターには、何の味も思い出せなかった。食べたものを思い出そうとしても、食卓というものの気まずさや、居心地の悪さばかり思い出される。あれは、逃げ場のない処刑台のようなものだった。
飛び交う剥き出しの言葉。暗黙の価値観の強制。無神経に、しかし執念をもって他人の秘密を暴こうとする目線。
「新人くん!」
普段からあまり動かないヴィクターの表情に悲痛さが混じって、ギルバートは思わず肩を揺らした。ヴィクターは寝入り端を起こされたように少し困惑して、それからまた落ち着いた顔つきへと戻り、給仕の方へ向き直る。その目は真っ直ぐな、騎士然とした瞳だった。
「申し訳ありません。今の私には、思い付かないようです」
「そう。じゃあ、ゆっくり考えてね」
突き放すような給仕の言葉は、何故か優しさも含んでいるようだった。
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