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第19話
「今戻りましたー」
「まだ昼休憩の時間内ですよ」
「デザート食べながら仕事するから大丈夫。メリさん支店の報告書って何処迄手付けた?」
「前半三件までです」
「残り、俺やります」
「わかりました。お願いします。それが終わったら本店の計算お願いします」
「了解っ。あ、メリさん。これ、いつでも飲めると思って。あと、煙草切れてたでしょ? 買ってきたよ」
俺はレジ袋と一緒に買ってきた缶コーヒーと煙草をメリさんに差し出す。
「……貴方、まさか煙草買ったんですか!? 未成年が煙草を買ってはいけませんっ! 何を考えているんですかっ!? 店員もっ!」
「うわっ、お、落ち着いてよ。大丈夫だって。俺が買った訳じゃないから。桃ちゃんに買って貰ってし」
「桃花?」
「コンビニ前で偶然会って、メリさんに渡すからってお願いして買って貰ったの。流石に俺だって、子供が煙草買っちゃ駄目なの知ってるから。安心してよ」
まさか怒られるとは……。
「……それなら」
「煙草買いに出る暇も無さそうだし、二箱しか俺の金じゃ買えなかったけど、今はそれだけで勘弁してよ」
「……礼は言いませんよ」
「要らんし。受け取るだけでいいから」
「……」
逆効果だったかなー。
ちょっとは戻れるかもって思ったんだけどな。
いや、でも今仕事中だし。落ち込んでる方が可笑しいし。
「データの権限貰っちゃうね?」
「保存して閉じるので少し待って下さい」
「はーい」
そう。今は仕事中。
そう言えばこのバイト、ヘムさん帰ってきたら終わっちゃうんだよね?
ヘムさんは帰ってきてくれるの嬉しいけど、やっと仕事が覚えられたのに。少しだけ、残念だなって思う。
あ、これ、もしかして寂しいのか?
けど、仕事終わるだけでリリさんとか、ヘムさんといる限りはいつでも会えるし。
来ようと思えば、俺はいつでもここに来れるし。
あれ? おかしいな。なら、俺は何が寂しいんだろ?
「はー。無駄足、無駄足。何が呪縛も食える神様だよ。何も食えねぇーじゃん」
足蹴にした蜘蛛の化け物の死体にに舌打ちを向けると、ヘムロックは一瞥もせずに指を鳴らす。
その瞬間、蜘蛛の死体からは夥しい紫色の血が飛び出てきた。
「うっわ。不味そう」
自分がそうしたと言うのに、彼は嫌な顔を作る。
幼なさが残る傲慢さ。
しかし、血は血なのだ。
吸血鬼である以上、それ以上も以下もない。
ヘムロックはまるでニンジンが嫌いな子供の様に、鼻を摘んで、嫌な顔をして。不本意であるかの様に口を開けた。
紫色の血が彼の口へと注がれる。
「うへぇ……。不味くはないけど、うまくもない。最悪。見た目悪いんだから味も不味くあれよ。味普通ってのがまた腹立つな」
ゴクリと喉へ流し込むと理不尽極まりない発言。
これこそが、ヘムロックなのだ。
「はー。一週間近く逃げ回った末に此れかよ」
リリ戦からそれ程日にちも経っていないと言うのに。
無駄な力を使わせてくれたものだ。
これは早く帰ってハチに癒されるしかない。
「飛行機空いてるかな」
携帯を見たら、ここは圏外。
思わず、ヘムロックの舌が出る。
二週間近く、愛犬兼恋人(仮)とは泣く泣く離れ離れ。
件の神様は神様でもなんでもなく、ただの雑魚妖怪。ただし、逃げ足だけは早かった。
久々に可愛いハチの声を聞けたと思ったら、ブチ切れ鬼ババアと化したリリとオンライン格ゲー。最後はシューティングの喰らいボム確をさせられる羽目になったわけだ。
で、帰ろうとして飛行機の座席を取ろうとしたら、携帯が圏外。
ついてない。今のこの現状はその言葉以外には見当たらない。
深いため息を吐くと、ヘムロックは携帯の画面をメリからのメールに切り替える。
そこには、眩いばかりに微笑むハチの姿が。
と、見えるのはヘムロックぐらいだろう。曖昧に笑っているだけで、それ程輝いてもいない。
しかし、ヘムロックの中では自分に向けた笑顔だと思っているし、曖昧に笑っている姿は自分がいない寂しさによるものだと都合の良い解釈を信じて疑わないのである。
何一つその中に真実がなくても、常に事実すらもその存在だけで捻じ曲げて来た最強であり最悪である吸血鬼の王には関係がないのだ。
萎れた蜘蛛の死骸を足蹴にしながら携帯の画面を眺める事十分程。
漸く携帯をポケットの中に捩じ込むと大きく背伸びをする。
身長百九十そこらの男が大きく手を伸ばしているだけで嵩張るから辞めろとリリに常々言われているが、こんな自然の中ではたがが百九十。随分とちっぽけな物だ。
そろそろ山を降りるか。
そう思った矢先の事だった。
「あら?」
ヘムロックの後ろから女の声が聞こえて来る。
「え?」
振り返れば、一人の老婆がこの時代には随分と珍しい籠を背負って経っていた。
人間?
何故、こんな所に人間が?
そもそも、何故ここに入れるんだ?
人間に見つからない様に結界を……。
ヘムロックはそう考えそうになって、パッと思考を手放した。
当たり前だ。
リリに散々口煩く言われて、ハチの事を引き合いに出されて、仕方がなく蜘蛛を見つける瞬間までは覚えていた。
そう、その瞬間までは。
でも、その瞬間からは覚えていないわけで。
つまり、簡単に言えば彼は結界なんて最初から張っていない訳である。
これで魔取に通報でもされたら随分と鬱陶しと言うのに。
しかし、張っていないものは仕方がない。
戦闘中でも血を啜ってる最中でもないのだ。
どうせ、この蜘蛛の死骸だって、見える人間は少ないのである。
「こんにちは」
ヘムロックは愛想のいい笑顔を浮かべて老婆に手を振った。
相手が気付かない程の速度で目の色を青色に変える。
「あら、外国の人?」
「はい。アメリカから来ました」
「観光かしら? でも、此処らは何も無いわよね?」
「いえ、私は日本の神道の研究をしているので、古い神社を見に来たんです」
「まあ。そうなの?」
勿論嘘だが、そんな事はヘムロックにもこの老婆にも関係がない。
不審に思われなければいいのだから。
「でも、こんな所迄登って来るのは大変だったでしょ? 獣道しかないものだから」
「はは。何度か迷いました」
獣道しかないとか、本当に現代の日本の話かよ。
空を駆けて来た吸血鬼は、人間姿で帰るにはその獣道を通るしかないのかと言う絶望に心底げんなりしていたのだ。
「でも、見たところ軽装そうだけど、お水はちゃんと飲んでる?」
「え?」
思わずヘムロックは自分の手元を見た。
そう言えば、荷物はまだホテルに全て預けてある。
言い訳よりも、彼の中では一度ホテルに戻らなければならない労力を思い出すと目眩を覚えそうだ。
「あー。マップを調べたら直ぐに行けると思っていたので、荷物は持ってきてないんですよ」
「まあ。良くないわ。熱中症になっちゃうわよ」
「すぐに山を降りて何か買いますので、ご心配なく」
吸血鬼が熱中症なんて、笑うしかない。
それに水分補給なら今し方したばかりだ。
「そんな、良くないわ。家にいらっしゃい」
「へ?」
何だって?
「そんな悠長な事を言ってたら、倒れちゃうわよ?」
「あ、いや、でも……」
「いいから、いらっしゃないな。私の家、すぐそこなの」
「そんな、悪いですし」
「いいから、いいから。お客様なんて久々で楽しくなっちゃうわ」
「いや、そんな……」
行くなど一言も言っていないと言うのに。
老婆はヘムロックの手を掴むと意気揚々と歩き出した。
煩わしい。
無難に物事を収めに努めたと言うのに。人の話を聞かない雑魚が自分の手を取るなど、烏滸がましい。
それを許すとも、発していないと言うのに。
その手首ごと、もぎ取ってやろうか?
人ではない。ヘムロックは吸血鬼であり、人外の中でも化け物だ。彼に理屈も常識も、思いやりさえ通じるわけがない。
彼の中にあるのは、愉快と不愉快。そのふたつその二つだけ。
今は明らかに不愉快だ。
すっと、指を鳴らそうと親指が人先指に触れる。
人一人ここで死んでいたところで、何の問題もない。逆にヘムロックの期限を損ねる事に人々は怯えるべきなのだ。
彼は気分で何でもする。人など、彼の前ではただの散らかったゴミでしかないのだから。
しかし……。
「……ご婦人、私は自分で歩けますよ」
ヘムロックはすっと親指を人先指から外すと、老婆の肩を叩いた。
不愉快は不愉快だが、何となくハチの顔が浮かんだ。
時折ハチの前だと気分屋な自分の行動が些か気恥ずかしく感じてしまうのだ。
それを悟らせる行動は、彼と会う前は推し控えたい。
それがヘムロックの格好を付けると言う事なのだろう。
「迷わない?」
「大丈夫ですよ。こう見えて、山道は慣れていますから」
どうも調子が狂う。
彼の事を考えるだけで、自分の行動を逐一考えてしまう。
でも、それで彼が自分に好意を持ってくれるのならば、安いものだ。
そんな現金な自分は、些か愉快なのだから。
山道を少し下ると、随分と古びた民家がポツリと一つだけ経っていた。
恐らく、明治よりも前の建造物だろう。
一度、その具合にヘムロックも日本に訪れた事がある。
それは、友の訃報を知らせる友からの知らによってだが。
「随分と、趣のある家ですね」
「暗に古いと仰って。貴方、日本語お上手なのね」
「ええ。まあ。日本に長くいるもので」
恐らく、目の前の老婆が生まれる前からヘムロックは日本の地を住処としている。
「私の祖父の父が海外の人だったのよ。もう随分と薄まってしまっているけど」
「それは、ご縁がありますね」
「ねっ。驚きだわ。恥ずかしながら何処の国か知らないのだけど、もしかしたら貴方と同じでアメリカかも」
「だと、光栄ですね」
アメリカからなんて渡って来てはいないが、そう言い出した手前後には引けない。
そもそも嘘を付かなければならない時点で訂正なんてする必要が何処にもないのだ。わざわざ話を長引かせる必要もないだろうに。
「さあ、入って。麦茶でいいかしら?」
「お構いなく。何でも飲めますので」
「あら、好き嫌いはないの?」
「ええ。そう、育てられたもので」
厄介な、教育係に。
ヘムロックと言う化け物をギリギリこの世界に留めた男こそが、その教育係だ。
名は、ラギフ。全吸血鬼の中でも影使いの名門ヴィステール家の血の元に産まれた金髪の優男。
歳はヘムロックより、一つ上。ヘムロックの乳母が彼の母親だったのだ。
ヴィステール家の生まれと言っても、何も嫡子と言うわけではない。末端の末端。彼自身にも親にも爵位等は何もない。それでも、影の使い方は吸血鬼の中でも随一だった。
そして、かの問題児、ヘムロックの扱い方も、彼が一番だったのだ。
ヘムロックの僅かながらにある常識は、全て彼から教わったものだ。勿論、好き嫌いはやめよう、も。作った相手に失礼だし、料理作った僕にも失礼だ。そう言って、何度顔面をスープ皿に沈められた事か。そんなことすら、今は懐かしく穏やかに思い出せる程の時間は経ってしまったが。
「はい、どうぞ」
「有難う御座います」
「いいのよ。私が無理矢理連れて来てしまったようなものでしょ? 遠慮しないで沢山飲んでね」
「いえ、本当に。この一杯だけで十分ですよ」
出来れば長居はしたくない。
いち早く、帰らなければならないのだから。
「アメリカってどんな所なの? 私、ここから出た事なくて」
と、思った矢先に此れだ。
面倒くさい事になる前に、帰路に着かなくては。
ヘムロックはテーブルの下で素早くメイディリアにメールを打つと、話を変えるように笑顔で老婆にこう尋ねた。
「失礼ですがご家族は?」
今のアメリカなんて知るはずが無い。せいぜい南北戦争前後の頃ぐらいだ。
「夫は先に逝っちゃったわ。娘と息子は都会に住むんだって、帰ってこないの。親不孝でしょ? お陰で好き放題よ」
「良いですね。悠々自適だ」
「ふふ。物はいいようね」
ヘムロックがコップを傾ければ、香ばしい匂いが口の中に広がる。
「美味しいです」
「良かったわ。そう言えば……」
老婆が何か言いかけた時だった。
ヘムロックの携帯の着信音が部屋に鳴り響く。
「失礼。出ても大丈夫ですか?」
「いいわよ。隣の部屋に移動されても大丈夫だからね」
「恐れ入ります」
ヘムロックは電話に出ると、これ幸いとすぐ様部屋を移動する。
通話の相手は勿論、メイディリアだ。先程のメールで至急電話してくれと頼んであったのだ。
つまり、彼は会話を終わらせてさっさと帰る口実を自ら作りに行ったわけである。
「メイディリア?」
『何の様ですか』
「俺、困っててさー」
老婆に内容が聞こえない様に、すぐ様自国の言葉に切り替える。
『はぁ』
「ちょっと、人間に捕まってて。逃げる口実が欲しかったのよ。助かったわ」
『何ですかそれ』
「話せば長くなるんだけど、聞きたい? 知りたがりかー?」
『それ、僕に拒否権ありますか?』
「はっ。あるわけねぇじゃん。あんねー……」
その時だ。ヘムロックの目に一枚の写真が飛び込んできたのは。
それは実に穏やかで優しい顔をした、年老いた男が家族に囲まれている写真だった。
ヘムロックは、息を呑む。
それは正しく……。
『ヘム様?』
「……悪い。電話ありがと、切るわ」
『は? いった……』
メリの言葉が最後まで終わらぬうちに、ヘムロックは電話を切って写真を見つめた。
間違いない。間違いなく、この男は……。
「ラギフ……」
そこには、数百年一緒にいたと言うのに見覚えのない幼馴染の姿があったのだから。
「何なんですか! あの人はっ! 突然電話切るなんて非常識にも程があるっ!」
「あ、電話終わったん?」
「ええ! 不思議なことに、一人でにねっ!」
滅茶苦茶キレてるじゃん……。
えー。ヘムさんなんだったん? とか、聞けない感じかよ。
ま、多分ヘムさんが悪いから仕方がないか。
「そっかー。不思議なこともあるね。電波悪かったのかも。あ、報告書纏めるの終わったよ。手も空いたし、次の会議のアジェンダ作っておこうか?」
「……そうですね。頼めますか?」
「勿論。作り方ばっちりメリさんに教えてもらったし、任せといてよ」
「あ、その前に今日のリリ様のタスク更新お願い出来ますか? 午後一から触れていないもので」
「いいよいいよ。俺もすっかり忘れてた。やっとくね」
「お願いします」
ここに来て数日。随分と仕事を覚えた気がする。と言うっても、見様見真似だけどさ。
さて、タスク更新しますかー! 今の予約まで終わってるタスクを……。
「ん?」
「どうしました?」
「あ、いや……」
いや?
じゃ、ないっ!
「何か?」
「見間違えじゃないわ。メリさん、ヤバい」
「言葉遣いが……」
「そんな場合じゃないって! リリさんの予約、二十一時枠、二つ被ってる!」
「……は? え? マジで?」
「マジで!」
「……は、ハチ様っ! 至急リリ様に電話をっ! 僕は客先に話をつけます!」
「了解っ! ……メリさん、これ、ヤバんだよね? 何とか、なる……?」
最初に口煩いぐらい言われたダブルブッキング。ダブルチェックをした筈なのに、何故かそこだけ見落とされていた。
「ハチ様っ!」
「はいっ!」
「何とか、するんですよっ! 僕たちでっ! やりますよっ!」
隣に座っていた、メリさんの大きな手が俺の背中を力強く叩く。
滅茶苦茶痛いのに、何故か俺は漸くメリさんの言っていた言葉が理解できる様になった気がした。
「はいっ!」
だからかな。何でもやれるって気になったんだよね。
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