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二月二十七日
向こうにも悪気はなかった。それをよく理解しているし、何より、あの悲痛な姿を見ると被害者ながら責め立てる気にはなれなかった。
カトウさんというらしい。父、母、ちいさな娘ふたり、それに赤子も抱えていた。いかにも清潔で真っ当で、幸せな家族のサンプル資料みたいだと思った。彼らが、特にあの父親の姿が、網膜に焼き付いて今も残っている。至極丁重に、身を引き千切るような切迫した間と共に、震えながら何度も何度も頭を下げたあの人。
半分は自分のせいだった。よく慣れた道だろうが、急いでいようが、俺がもっと確認さえしていれば。あの日帰るのがほんの数分早ければ、遅ければ、別の道であれば、反射材を五倍くらい付けていれば、きっとあの人は今もどこかの平和なひとつの家庭をせっせと築いていたに違いないのだ。
実は一度だけ、彼の家に行ったことがある。どうやら休職してしまったらしい。ひどくやつれた顔でぼんやりと布団を被っているのを見た。いっそ勧善懲悪モノに出てくるわかりやすすぎる悪人ならよかったのに。のうのうと図々しく生きて、俺をバカにして笑ってくれていた方がよほどよかった。女の子ふたりの楽しげな笑い声が響く家の中で、赤ん坊の世話をする祖母らしき人も、両親も押し黙っていた。モデルルームのように綺麗な新築の一軒家だった。
その空気があんまり痛くてすぐに逃げた。
あれから一ヶ月近く経った。多部に唆されたから、というわけでもないが、未練と言われるとまずはあの日に戻らなければいけない気がして、恐る恐る様子を見にきた。まだ外は明るいが既に玄関の明かりは点いていた。
こっそりとお邪魔すると、そこには娘たちと遊ぶ母親の姿があった。それだけでなんだか泣きそうになった。おままごとの道具でちょっとだけ散らかっている。ベビーベッドはゆらゆら揺れている。そして彼は、父であるあの人は、キッチンに立っていた。頬はこけて、顎のあたりも何日分か滞納しているが、どこか穏やかな表情に見えた。包丁がまな板を叩く音が、ゆっくりと、ゆっくりと繰り返される。優しい味噌汁のにおい。
俺はぎゅっと強く手を組んだ。うちの母が、うちの父が弟がどう思うか、しかしきっと彼らだってわかっているはずだ。加害者であるこの人たちも、どうか幸せであってほしい、と願う。
二月二十八日
日曜日。ショッピングモールにもちゃもちゃと集まった人々の隙間を、子供が器用にすり抜けていく。肩を並べる恋人、大股で歩く男性、飲み物片手にゆっくり進む女子。コートを着たままだったり腕に持っていたりマフラーを落っことしたりと様々だが、皆一様にマスクを着けていた。
吹き抜けのエスカレーターをぼんやり眺めた。一段分ずつよそよそしい間をあけて流れていく。俺もここへ来るのは日曜日、家族と、がやはり多かっただろうか。中学生のころは友達と来てゲームセンターに長々と居座ったっけ。
通りすがりの人々が交わす何気ない会話に鼓膜が揺れた。隣にだれかいれば、聞こえることすらない雑音である。延々と繰り返される眼鏡屋の売り文句、セールのテープが貼られた服、ゲームの効果音、知らない人の頭。そうしたものの中にいるとざわざわと内臓まで落ち着かない。けれど、なぜか心地よい。
ふと、多部のことを考えた。ひとりでこんな晴れた日に何をしているんだろうか。だらりと昇降口でも校庭でもどこでも寝そべって、かと思えば突然移動して遊び出す姿が目に浮かぶようだ。それから、彼の軽いハミングを思い出した。
「……んー……んっんー……」
ほんの小さな声で絞り出してみる。
歌いたい、と思った。これは普通の人にはよくあることなのかもしれないが、俺には本当に珍しいことだった。これまで一人でいる時だろうが風呂だろうがなんだろうが歌いたくなることなんてなかった、数年に一度、よほど好きな歌ができた時くらいのもので。
「……んーんっんー……んんんーんー」
小さく口ずさむ。誰もこちらを振り返らない。そうだ、歌ったっていいのだ。こんなショッピングモールのど真ん中で歌っても、誰にも怒られない、気づかれることもない。
「……トゥーザプレー……アイビーローン……」
なんだか楽しかった。きっとにやけていると思う。手すりにもたれかかって不格好にメロディーをなぞる。歌詞、なんだったっけ。目の前を行く女子たちがショッピングバッグを重そうに持ち替える。やけくそに大声を出しても、冷たい奇異の目を向けられることはない。携帯を触りながらのんびりと横切っていく。
多部がいつも歌っていたのは、誰にも届かないことが気持ちいいからなのだろうか。ただ歌が好きなのだろうか。バンドをやっていたのなら、後者かもしれない。次に会ったら訊いてみたい。
三月一日
今日は夜遅くになってから学校へ行った。まだ息は白く、肺の内側まで凍りそうな寒さだ。静謐で居心地がいい。
多部をぼんやりと探し回った。正門から中庭、裏庭、いつも通る中央階段を上って屋上へ。風に煽られた髪を押さえながらぐるりとその場で一回転。西校舎の屋上の片隅で寝転んでいる彼を発見した。警備員が見つけたら怖いだろうな、あの位置。
「多部さーん」
と呼びかけて手を振る。こちらに気づかない。
仕方なく出向き、敢えてそうっと気配を消して忍び寄った。埃っぽい床に堂々大の字で寝転び、腕で目元を隠している。眠っているのだろうか。
「……多部さん?」
囁くと、びく、と体が震えた。驚いたようすで腕をどけて鈍い笑顔を浮かべる。
「おはよう」
「……寝てたんですか」
「いや? ぼうっとしてただけ」
フェンスにもたれかかって息をつく。隣に座り込むと、重くて支えられないといったようすでこちらに頭を倒してきた。初対面から感じていたがやっぱり距離が近い。
しかし、気持ちはわかる気がする。こうなってから他人の温もりとかそういうものが妙に恋しくって堪らないのだ。肌の奥で血が流れ、臓器が蠢き、細胞がひしめくあの生々しさが、突然何にも替えがたい尊いもののように思える。
「どないしたん?」
多部が話すと、声帯の振動が皮膚に直接伝わってくるような錯覚がした。
「わざわざ俺に会いにきたん?」
「……うん」
肯定するとわずかに動揺した。視線がこちらを向いたと、交わっていなくてもわかる。
「何してるんやろうと思って」
木の葉の掠れる音も遠い。パッポー、パッポー、青信号の合図がふたりを貫く。彼は呆れたように浅く笑っていた。見応えのない夜景を二人で眺めながら時間を潰して混ぜていく。
暇なん。その柔らかい響きがどこか嬉しそうに聞こえるから、つい浮かれてしまう。雲で星はほとんど見えない。
三月二日
「未練いうほどのことは無いんですけど」
切り出すと、それまで自作「鼻くそのうた」を歌っていた多部がふと黙った。揺らしていた首も止まる。
「どうせやったら、最後に、告白してみたいなとは思って。よく考えたら無いんですまだ」
「ほっほ~ん」
「童貞なんはもうどうにもできんけど、告白童貞ぐらいは」
「ほんほんほん」
多部がどんどん厭らしいきつね面になっていく。真剣に授業を聞く者、真剣に内職する者、真剣に眠る者の三種に分かれた生徒を冷やかすように、多部が机の間を滑らかに渡り歩いてきた。
「を、俺に言うたってことはそういうことやな」
グニャリと頚椎を曲げて脇腹を突いてくる。だって、誰も観測してくれなければ無いと同じことだろう。せめて多部に看取ってほしい。こわばった顔の筋肉をなんとか歪めた。
「どうぞからかって下さい」
「いや、意外と真剣に応援しちゃうで。キューピットすんの案外好きやったりするし。相手あれ? あのこないだの爽やかイケメン?」
びくりと体が跳ねる。それこそ、墓場まで持っていこうと思っていたのに。
「……わかってたんですか? 俺が、……」
「いやまあ……バレンタインの時、えらい熱心に見つめてたから。見惚れてたいうか。もしかしたらそういうことなんかなあ〜知らんけど〜ってな」
平井。バレー部の部長であり、高身長のイケメンであり、俺の一番の友人だ。
入学してすぐの頃から好きだった。バレー部の体験入部で一緒になった時には、既にある程度気持ちができてしまっていた。偶然仲良くなって、彼の隣を確保しながら高校生活を過ごせるのが誇らしくも悲しくもあった。……数ヶ月前に、安藤さんと上手くいったらしいのを風の噂で知った。本人はいい加減に誤魔化していたけれど、バレンタインを見る限りやっぱり真実だったのだろう。
それで、殺されたようなものだったのだ。なんならせいせいした。俺の恋が跡形もなく消えてなくなるのを、死ぬ前から、どうしてだか祈っていた。
「わりと面食いやったりするん?」
多部は普段通りだ。遠慮もせず、オブラートに包まず、しかし地雷は踏み抜かず、どうとでもなる距離でステップしている。肩にこもっていた緊張が落ちていく。
「…………そうかも」
力なく笑った。少しだけ泣きそうになった。多部は犬を撫でるように俺の頭を掻き回してくる。彼のすぐ後ろで、平井が窮屈そうに眠っている。
三月三日
多部を練習台にして何度も繰り返したけれど、いざ本人を前にすると頭からつま先まで真っ白になってしまう。言葉にすると乙女チックすぎてなんだか笑えた。ただ、緊張するとか恥ずかしいとか、恋らしい感情だけではなくて、安価なプラスチックの体を砕かれるような恐怖のイメージが未だに抜けきらないのだ。
想いは真剣である。けれど、状況が状況だから、多部がひゅーひゅーと冷やかしたり背中を押してくれたり、まるで女の子みたいに囃してきた。それがなんだか嬉しかった。自分は良くも悪くも、普通なのだと、ありふれた低俗でくだらない恋をしたのだと思えるから。
そんなわけでチャンスを逃し続けて、七限目、これを逃すと彼が静かにひとりで佇む時間は終わってしまう。自分の言葉を、なるべく阻まれずに発せる最後の機会だ。
いつもの教室。席替えをしても動くことのない俺の机の上で、紫色の花が風に揺れていた。本日何度目か、再び、彼の目の前に立つ。手で消しゴムのかすがまとめられていく。腕に残る傷が、逞しい体が、長いまつ毛が陽射しを受けてまた一層美しく見えた。
「……」
多部がチョコチョコと小物っぽい走り方でこちらへやってきて、鼻息を荒くしながら背中をバンバンと叩く。ふたりで顔を見合わせて強く二度頷いた。それから教室を出て、ものすごくこちらを気にしながら待っている。
「……あのさぁ」
声が震えた。また、何を言おうとしたか忘れる。そろそろ脳がおかしくなってしまったのかもしれない。脳神経が焼け切れる。
「なんなんお前」
真っ先に悪態をついてしまった。かふふ、と息が零れる。
「お前、もうちょっとさぁ、気づいてくれてもよくない?」
頭が熱くてたまらない。彼のクソ汚い字が素早く並んでは消されていく。ボロボロのシャーペン、俺があげた赤ペン、手にまだ残っているタコ。ああ元友人、どうか偶然、時計でも見ようとして顔を上げてくれ。
「……もっと落ち込んでほしかったけど、でも、あんまり引きずってなくてよかった。俺のこと、……友達って思ってくれてたんやと思うと、なんかそれだけでもうええわ」
そっと頬に触れてみた。温度はわからない。腹立たしい。八つ当たりに唇をつけてやろうかと気が迷ったが、そんなことができるはずもなかった。気だるそうにワークを開いている彼を眺める。
「せやけど、俺やって、ずっと好きやったんやで? ……」
どうしたって声が涙ぐむ。彼はもちろん返事をしない。こっそりと携帯電話を開いて、届いたメッセージにごくうっすらにやけている。
なんてしょうもない失恋なんだろう。
三月四日
多部が、自分の髪の先を指でチョイチョイと弄りながら言った。
「これさあ、やっぱ似合わん?」
中庭。誰かがここで掃除用のバケツをひっくり返したらしく、地面は殺人現場のように濡れている。これを見つけた多部はあ〜見たかった〜瞬間見たかった〜とぼやいていた。
「……何? 金髪っすか?」
「ちゃうよ、ワックス。金髪は似合うやろ。お兄ちゃんその髪色で生まれてきたみたいやわ〜て初詣で褒められたことあるわ。このやっすい金がええやろ」
いまいち角度のわからない自慢を言いながら、落ち着きなく弄りまわしている。芸能人や外国人を除いて、俺が今までに見たことのある人で言えば、一番金髪が似合っているとは思う。サフランライスみたいな顔だからだろうか。
「俺あんまわかんないんですよね、ワックス。つけてるつけてないの違いもわからん」
「結構違うやんか」
「つけてんのにそんな前髪パッカーなるんすね」
花壇のへりに生えている雑草が前よりも増えた気がする。そちらに気をとられていると多部の声がますます大きくなった。
「ちゃうねんこれはぁ、寝癖で毎回こうなんの! ほんでワックスつけて直そうとするやろ? そしたらな、どうなるかというとな、カッスカスアンドパッカーになんのよ」
チッチッとアメリカンに指を振っている。アリがいた。一匹いるのに気づくと連鎖して、意外とたくさんいたことに気がつくのって不思議だ。
「ほっそい束になっちゃうんよワックスつけすぎると。貧相になんの。貧相になってしかもクセが強すぎてわけわからんことになんのよ。俺がこの前髪と毎朝どれだけ戦ったか……」
「寝相が悪いんちゃいます?」
「もう言われ飽きたでそれ。あんな、普通に寝ててん横向きで。でも朝起きたら斜めにこう、こうなってんのよなぜか。ほんでパッカーや」
身振り手振りで解説する多部が、妙に必死で面白かった。
「もうそら、パッカーの星の元に生まれたんでしょ」
「うわーセンチメンタルー」
「スピリチュアルや」
言いながら笑ってしまった。こんなしょうもないことで笑ったのが悔しくて顔を押さえつける。多部が嬉しそうににやけていた。
「はるちゃんがゲラでほんま助かるわ」
三月五日
ついに最後のテストが終わった。三年は一層目頭をきりきりさせて、マスクをつけて歩いていく。一、二年の合唱はいつの間にか随分まとまるようになっていた。それぞれの部活がサプライズだのなんだのを必死で仕掛けて、みんながフィナーレのほうを向いている。
そこから弾かれたふたりは、俺と多部は呑気にふらふら遊んでいた。ありがたみのないモラトリアム延長だ。
「ほらほらほら絶対告白やってあれ」
「こんな微妙なタイミングで告白はないでしょ」
「いやいやたぶんほら、お守りと一緒に渡すやつやって。先輩っ、て」
とかわいいポーズをとって笑う。せんぱい。せーんぱいっ。不気味な裏声ではしゃいでいる。
「多部先輩ってロマンチストですよね」
ゆるい嫌味を言うと肩を小突かれた。
体育館の裏は今日もしっかり冷え込んでいる。オエーイ、と汚めの掛け声が聞こえてきた。聞き覚えのある声で作られている。
トゲトゲした薄汚い壁に保たれるのをやめて、なんとなくで体育館の中へと移動した。男女のバレー部が床面積をちょうど半分こして仲良く使っていた。靴底のゴムがキュッキュッときしむ。俺の後輩も、この蒸れた空気の中にいる。
「先輩呼びってロマンよな、なんかさあキュンってするやん」
「男の後輩でもってこと?」
「そうそう、なんか本能的にキュンって」
「多部先輩もこっちっすか」
返答に困るような自虐をしてしまった。二階で手すりにもたれかかって、嫌な顧問のように、動き回るつむじをけだるく眺める。
「こっちってどっち」
目線をやると、意地悪い笑顔を浮かべていた。彼が手すりに身を乗り出す。そこからぶらんと、膝を引っかけて逆さまにぶら下がった。どうしても危なっかしく感じてしまう。
「ええやんか別に、男相手にキュンとしたって。普通に、こう、愛情とかあるやん」
と呟くのがあんまり自然で落ち着いていた。なんだか妙に悔しい。たまに余裕っぽく、年長者みたいなことを言うのがずるい。
オエーイ、オエーイ、とうなり声が輪唱のように繋がっていく。見慣れた三色のボールが女子の細腕にめり込んだ。あの痛み、あの感触が恋しい。
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