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三月六日
「てかもっとさ、パーッと遊び回っておいでや。気分だけでも」
土曜日。多部がそう言って、灰色の重たい雲を見つめている。今日は久しぶりにアンニュイ風味の多部だ。
「ひとりやと楽しくないでしょ」
「他にいくらでもおるよ、傍におってくれる人なんか。探してみ?」
と言って笑って、勢いよく窓から首を出した。
今、俺がそこそこ楽しく居られるのは、あの日多部が声をかけてくれたから、しつこく寄ってきては話しかけてくれたからだ。恩はある。けれどそれより単純に、俺はたぶん多部のことを気に入っている。
「俺がついて行ってやれんから、なんや気遣わせてるんやろけど」
「いやなんか……全く遠慮とかやないですよ」
しばらく頭をひねる。この絶妙なニュアンスをどう言葉にすれば、思う形で相手に伝えられるだろう。迷っている間、多部は窓辺に貫通したまま大きく伸びをした。もし地上から見ている人がいたら驚くだろうな。
「……今更ほかに喋る相手作んの面倒くさいやないですか。楽なんです、多部さんとおるの」
と言った。これも本音には違いない。
ほーか、と呟いて彼が戻ってくる。どっかりと他人の席に座り、机に突っ伏してしまった。偶然誰かの足が当たっても気にしない。髪の付け根が僅かに黒かった。考えてみれば、彼にも黒髪の時代があったはず。一体どんな少年だったんだろう。
「楽ってなあお前。ふふ」
顔を横に倒してくすくす笑う。なんだかとても、この頭を撫で回したくなった。ゴールデンレトリバーみたいに見える。外観も匂いもなんだか似ている。黒いつぶらな瞳で、確かめるようにこちらを見つめるのも。
気が触れそうだったので、一旦俺もまぶたを閉じた。薄暗い教室を満たす雑音が心地よい。
三月七日
多部が突然唸りだした。放っておいた。彼には放っておいても勝手に話しだす時と、そのまま唸るだけで終わる時があるのだが、今回は前者だった。
「大好きな小説があったんよなあ」
ささやいて、眉間をシワシワにする。
「せやけど、タイトルも、内容すら思い出されへんねん。読んだ時にめっちゃさあ、ものすっごいこう……なんていうか、質のいい? ヒリッてなる感じの痛さがあったのは覚えてるんやけど」
今日は屋上の手すりの上に寝そべっている。なにもそんな不安定で物騒な場所に寝そべらなくても、と思いながら少し離れて見ていた。
天気は悪い。昼間なのに薄暗いと、それだけでこれほどまでに気分が落ち込む。
「なんやったかな~なんやったかな~あれもっかい読みたいなぁ」
「どんな表紙やったとか、……内容ちょっとでもわからないんですか」
屋上の隅でビニール袋がガッサガッサと音を立てていた。誰かがここへ来たのだろうか。それともどこか遠いところから舞い上がってきたのだろうか。手すりの角に上手く引っかかっていて風が強くなってもなんとか踏ん張っている。
「どんなんやったかな~だいぶ前やから……なんか、すごい切なくって、でも泣かしたろうみたいなベタベタに切ないのやなくてな、普通におもろいんよ。やのに突然びっくりするほど切なくなってな」
多部がタイトルをうまく思い出せたところで、もう一度読むことは叶わないだろう。ふとそれを理解してなんだかこちらまで寂しくなってしまった。
「……良いですよね、そういうの」
少し曖昧にぼかして呟いた。俺にもそういう作品があるだろうかと考えてみたがなんにも思いつかない。ゲームに置き換えてみると、確かにそういうものがある気がした。俺の体の一部になってしまっているような物語。
「うわ~悔しいな、なんやろう……作者の枕元に立ってありがとうありがとうて言うてやりたいわあ」
「物騒」
「泣かせてまうか」
自分でツッコミを入れながら、多部がごろりと寝転がる。あっ、と一瞬声が出かけた。柵の向こう側へ転がっていった彼の体は、重力に従って落ちることなく、その場に留まっている。
多部が飛んでいる。飛んでいるというか浮いているというか、いまいちへっぽこだ。それを見ているとなんだか気が抜ける。
そう、気が抜けたから、口が滑った。
「なんか、好きなものって、ほんまに自分の血肉になってるような気がする。そういうの良くないすか」
は? といった顔をされた。深く傷ついた。こういうポエミーなことは一生言わないと固く誓ったはずだったのに。多部は「すまんけどそれはわからん。血って何」とあっさり言いながらその場に留まる。胸にヒリっとする感じの痛さがあった。
三月八日
「はるちゃん、はるちゃん。春が来るで」
妙にご機嫌でやって来たかと思えば、俺の手を引いてずんずんと歩いていく。もう呆れた顔はしないことに決めた。一体何をするのか、楽しみで頭がふわふわと揺れる。
「見て見て見てほら、ほら、な。春が来るで」
と、正門のそばにある桜の木に顔を寄せた。同じように近づくと、まだ硬そうな茶色い蕾がついているのがわかる。木肌と変わらない質感だから、枝にできたニキビのように見えた。
「春ですね」
「そう、春。はるちゃん春やで」
「俺秋生まれですよ」
「なんやて、無作法な」
なにがどう無作法なんだ。くひくひ笑うと多部は木に登りはじめる。幹のかたちがちょうど籠のようになっていた。そこにすっぽり収まるように座れば、華奢な体が桜の木に包まれる。
「俺春までここにおろかな。良くない? なんか桜の精みたいな。花が開くまでここで過ごして、卒業生とか新入生を眺めて、春よのお、って」
「いいですね」
「毎日毎日、少しずつ春が来てるのを見つめるねん。隣の木に初咲きされて、負けるな! がんばれ! 根性見したれ! ってうちの木も咲くように応援すんの」
「ガサツな妖精ですね」
想像してみると確かに素敵だ、あたたかい陽射しの中ああして丸まって、春の番人みたいに過ごす静かなひととき。実際は、雨とか虫とか大変そうだけれど。
「はるちゃん、ほんま変わったな。いや、戻ったんかな?」
多部がしみじみと、それこそ花がほころぶように微笑む。
「そんな優しい顔で笑うんやなあと思って」
そんな風に言われると歯がゆくて恥ずかしくてどこか嬉しい。いや、俺はヤンキーでもなんでもないんだけれど。
からんからんと音を立て、門の前をキッチンカーが走り去る。たまにこの近所で見かけるたい焼き屋だろうか。スーパーの前に止まっていると毎回まんまと食べたくなったなあ。
「世を憎む! 苦しめ愚民! みたいな顔つきやったのになあ。笑顔も劇画みたいでなあ、初めて見た時はこーんなちっこかったのに」
と指先で五センチを示す。
俺も木に登って、彼の腹をボンゴのように叩きまくった。
三月九日
多部の首の当たりが薄茶色くなっている。ふと気づいて指摘すると、深く深く息を吸って呟いた。
「傷跡って……かっこええと……思わん?」
しらけた顔でとりあえず続きを待つ。
「俺のこれは、十五、六の時に……うん多分。できた、傷だぜ……」
「わーかっこいー」
「ちゃんと聞けや。ちなみにこっちは小学生の時に焼肉屋で鉄網ごと食おうとしてヤケドしたやつ。皿やと思ってんよな。あとこれは台風の日にチャリ漕いでて電柱に激突してぶっ飛んだ時のやつ」
ざっくばらんに言った。その方がむしろ格好いい気がする。指し示しているのは擦り傷とか小さな色素沈着とか、どれも話の割に些細な怪我だが、そんな強烈な思い出があるなら覚えているのも納得だ。多部に歴史あり。
「ようそんな面白エピソードばっかりできますね」
「あは、せやろ? トラブルメーカーの功名ってやつよ」
「俺そんなおもろい怪我したことないですよ。普通に部活で捻挫したり脱臼しかけたり」
「脱臼ってとんでもないやつちゃうん……バレーは昔からやっとったん?」
中学から。へー。そこでふと、仲良くなる経路が特殊だったことを思い出した。俺と多部は、友達になるまでによく通る「なんとも言えないよそよそしい会話の期間」をすっぽかしているのだ。
俺は教卓に移動して、
「……はるちゃんクイズ! ジャジャン!」
一拍、パン、と乾いた音を響かせる。多部はさっと姿勢を正して左手を構えた。
「第一問、はるちゃんのポジションは何!」
「ピンポーン!」
言いながら多部が左手を大きく振る。手のひらで回答を促した。
「ミッドフィールダー!」
「ブッブー。バレーにミッドフィールダー無いですから」
「ピンポーン! ピンポーン!」
声に合わせて右手で頭の上をパカパカ開く仕草をしていた。クイズ番組のイメージが古いような。回答を促す。
「ジョッキー!!」
少しだけ、始めたことを後悔した。彼の怒涛のボケを捌き切れる自信がない。
三月十日
「先輩は卒業できないんですか」
風がふたりの間を抜けていく。なんとまあ空気を読めることだ。多部の目を見た。真っ黒い瞳が空をきれいにそのまま反射している。
「そうやなぁ。永久留年ってとこやなあ」
軽く言った。ポーズも変えずに悠々と大の字で寝そべったまま。埃っぽい屋上で二人きり。子供を外で遊ばせるために用意されたような天気だ。眩しそうに目を細めていた多部が目を閉じる。
「……そんなん、」
「別にそう悲観することでもないやん。……はるちゃんは卒業できる。俺はそれを見届ける。そんだけの話や」
「でも」
僅かに眉が動いた。俺には、多部がずっとどこか寂しそうに見える。いつでも明るく楽しく振る舞いながら、なにか慢性的な悲しみを湛えているように感じる。それがただの詩的な勘違いではないのなら。
「多部さんはずっとひとりなんですか」
返事をしてくれなかった。のどかな静寂が広がるばかり。
その頭元にしゃがみこむ。俺の影の中で、多部は視線だけをこちらに向けていた。彼を覗き込んだまま、何分も経った。何分もお互いの目を見つめていた。どうして笑っているんだろう。無性に彼の顔を触りたくなったが、指は動かない。
「そんな顔すんなや。別にほんまに、悲しむようなことちゃうやん」
淡々と呟いて彼は目を閉じた。震える手のひらで、そうっと頬に触れた。熱を感じる。錯覚だとわかっている。しかし、確かにここにあるのだ。
ブクシュン! と彼がくしゃみをする。続いて、ずべえええと汚らしくすする。
「空気読まんなあ俺」
と薄い唇が動いた。彼の頬の内側へ俺の指が沈む。貫通して、バグったように床まで刺さっている。もう「なにかがある」という感覚しか拾えない指。
花粉症の季節である。
三月十一日
歌が聴きたいと言った。どうせなら卒業式に、校長の目の前で勝手にライブをするとかそんな無茶苦茶をやってほしかったが、「さすがにそれは侮辱やん」と断られてしまったのだ。
「えらい無茶ぶりしてくれるやんか」
苦々しい顔で言っているが、すぐに準備するあたり満更でもないのだろう。俺もちょんと正座する。
「さすがにこれは結構恥ずいわ」
「多部さん、バンドネームみたいなのないんですか。ジャックみたいな」
「あるか! ビジュアル系とちゃうねん」
突っ込みながら軽く腕を回す。見守っていると、不意にターザンのような声を出しはじめた。あああ~ああ……と音程を上げたり下げたり、たぶんアップを取っているのだろう。
多部は花壇のへりのブロックに乗る。何度か咳払いをしてにやけた面を必死で直した。春の風があたたかくて心地よい。ふと顔を上げると、そこには知らない彼がいた。俺のためのライブが始まる。
歌も、知らない。エアギターが響く。リズムに合わせて手拍子を打とうとしたが、聴き入っているうちに忘れてしまう。全然知らないけれど綺麗な旋律だ。恋、と言ったのは聞き取れた。胸を押さえて立っているだけでもなんだか美しい。美醜というよりこの光景が。
高校生のバンドといえばロック、みたいな漠然としたイメージが瓦解する。ハイテンポだけれどこんなに優しくて綺麗で、合唱にも似た切ない歌を歌う人もいるのか。わずかに届いていない高音がまた切なく感じる。
歌い終えた多部がしっかりと頭を下げた。わー、と拍手をすると、数秒でにまにま嬉しそうに顔を緩ませて、
「……一階席~!」
なんてふざけてくれる。きゃー! と大仰に手を振った。
「アンコール! アンコール!」
「いやもう恥ずかしいわ恥ずかしい、自分いっぺんやってみ?」
へたな拍子で煽ったが、多部はもういつもの間抜けな多部に戻ってしまった。名残惜しい。
「多部さんが作ったんすか? 今の」
「あー、みんなで作ってん」
「へー、すげえ、オリジナル曲なんや。すげー」
「……おおきに。俺も、気に入ってるねん」
首の後ろをカカカッと掻く。遠くから制汗剤の酸っぱい香りがして、女子数人が通り過ぎていった。もし彼女らが今のを見ていたら、きっと恋をしてしまっただろう。
三月十二日
少し頭がふわふわする。一体なんだろう、と朝から考えていて、今やっと気がついた。眠いのだ。あれから眠気や空腹を感じずに、約四十徹の状態で過ごしたからぼけていたのだ。そうだ、眠いとはこんな感覚だった。
「……はるちゃん、気持ちよさそやな」
初めは教室やら廊下やらでだらける多部に呆れていた俺も、今ではひとりで堂々と中庭に寝転べる。普通ならやらないことをやるのって気持ちがいい。大きく伸びをして、日向ぼっこを続けた。
「ねむい」
「春眠暁を覚えずやなあ」
「あ、知ってたんすか」
「どういう意味や」
多部がぴっとりと体を寄せて寝る。空が遠い。古くさい校舎の壁が額縁のように、弱々しい青色の天井を切り抜いていた。
今日は昨日よりも雲の動きが早い。校内が埃っぽい。土が柔らかい。いつからかそういうことに気づけるようになった。
「……毎日、眠かったなあ、そういえば……部活、しんどかったし。勉強もそれなりにやったのに、全部無駄んなった」
と晴れ晴れ呟いた。苦しかったことは確かで、過去の俺を軽んじるつもりはないけれど、気持ちは非常に凪いでいた。
「でも、後悔はしてへんな……楽しかったなあ」
「そらええことやん」
「多部さんに見つかったんは惜しかったなあ」
「どういう意味や」
くすくすと口元で笑う。ちらりと彼を見たが、目は伏せられていた。まつ毛にまで寝癖がついて好き勝手に跳ねている。
中庭の端には鉢植えが置いてある。そこには、枯れかけの雑草にしか見えない草が生えている。卒業寸前だというのに俺は鉢の存在すら先週まで知らなかった。あの草はどんな花を咲かせるのだろうか。
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