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|7| 三月十三日 「死ぬまでにやりたい何十のこと、みたいなんを考えたんです」  今日は雨だからアンニュイなことを言ったっていい。ふたりでコンピュータ室に勝手に入り込んでくつろぐ。 「死んでるやん」 「一周回って実感なくて」  俺はうつ伏せに寝ていた。ここの床はなんだか気持ちがいいのだ。厚みがあって、すこしザラザラしているけれど上質な弾力があって。授業のときはよくスリッパを脱いで靴下越しに触れて楽しんでいたっけな。 「ほんで、考えてみたんですけど、これは生きてるうちに考えることに意味があるパターンのやつやなって。親孝行みたいな、なんか結局そういう……うまく言えんけど」 「いやわかるよ、生きとるうちに死んでからじゃ遅いって思っとくことが大事って話やろ」 「そう、それ」  多部は膝立ちでちょこちょこ動きながら、コンピュータ一台一台に貼られた識別番号のラベルが剥がれかかっているのを、指先で弄っている。先程まで動いていたコンピュータからはまだ「呼吸が聞こえる」のだと多部は喜んでいた。  わからないでもない。パソコンが起動する時のあの喘息のような音は俺もなんだか好きだ。 「オチないけどね」  小さく付け足すと、彼はんふんと口の中で笑った。リスのようなポーズをとってキーボードを変な角度から眺めている。 「オチ欲しがんの、職業病ってかさ、西の血の呪いを感じるよな」 「血の呪いっていいですね、なんか」 「ええな。生涯切れない血の鎖」  埃っぽくて冴えない教室をあっちこっち動き回る彼を見ていた。中身がすかすかの本棚、ゴミ屋敷のようになっている準備室をぼかす磨りガラス、かなり型の古いコンピュータたち。 「死んでんのに?」  とついばむと多部が苦笑した。半端に剥がれているテープを息でふうふうやっている。 三月十四日  やや緊張した様子で平井が和室に入ってきた。父が頭を下げる。写りの悪い遺影をちらりと見た。  彼は制服姿で、第一ボタンまできっちり止めていた。線香を慣れない手つきで刺して、目を閉じて手を合わせる。それからふと、悩むような仕草をみせて、鐘を鳴らす。ちょっと力が強すぎた。  今日、センター試験が終わった。例年なら既に卒業しているのだが、今年は明日から卒業式の予行をやる。イレギュラーとかなんとかいいながら結局やることはやるのだ。  母が緑茶を淹れて持ってきた。彼は湯呑みを片手に握ったまま、熱いだろうにごくごく飲んでいる。 「忙しいやろうに、ありがとうね」  ふうっと心地よさそうに息を吐いた。 「いえ、今日全部終わったんで」 「さよか……お疲れ様。ありがとうね」  平井が湯呑みを返した。そして、鞄をごそごそと漁りはじめる。母は会話の糸口がうまく掴めないのか珍しく無口だった。テレビを見ている父の意識もこちらに向いているのがわかる。奇妙な空間だ。 「これちょっと置いてもらっていっすか」  とおもむろに、コンビニに売っているような、安い小さなチョコレート菓子を取り出した。よく帰り道にガリガリ齧ったなあ。 「お供えもんって何がいいかわからんくて。すんません」 「ううん、ありがとう、遥好きやったもんなあ」  母が泣きそうな声で言って丁寧に受け取った。蝋燭や花を少しずつずらしてお菓子をそっと乗せる。  俺は、渡してもいないバレンタインのお礼を貰ったようで、奇妙な心持ちだった。あえての今日か。受験を終えた平井がくたびれた顔でコンビニに行って、これを選んで買うところが目に浮かぶようだった。あのしっちゃかめっちゃかな鞄の中身にそっと混ぜて、定期券圏外の電車に乗って。 「ありがとうね。またいつでもおいでね」 「いやほんま、遅くなってすみませんでした。また」  平井が深くお辞儀をして、底の潰れたスニーカーをゆっくりと履いた。外はもう暗い。彼は家から数歩離れて眠そうにあくびをする。背骨を伸ばす。ちらりと俺の家を振り返って、それから歩きだした。  俺の半端な笑顔の写真の横にいかにも派手で安そうなパッケージが並んでいる。なんだか似合う取り合わせだ。 三月十五日  林くんが髪を切った。柔らかそうな髪が、軽くパーマを当てたのだろうか、綺麗に耳の裏へ流れている。それにトレードマークの眼鏡も無い。  それを女子が指摘すると、林くんは少々照れくさそうに、 「ずっと切りたかってん」  とはにかんだ。  難関をいくつか受験したようだが、この調子だと春には遠いどこかへ行ってしまうのだろう。彼はどことなく晴れやかな顔つきで式の準備に臨んだ。 「似合うな」  多部が呟いた。確かによく似合っていた。大学デビューだなんだと陰口を叩かれる危険もおそらく過ったはずだ。あの猿のような男たちに殴られる可能性だって。しかし淡々と、堂々とやるべきことをやって立つ彼は非常に美しかった。生徒会の仲間らしき生徒に話しかけられて笑っている。 「よかった」  彼らの様子を体育館の端っこで眺めながら呟いた。多部はバスケットのゴールリングを掴んで懸垂しながらこちらを向く。 「ダンク」 「強いですね、あいつ」 「なあダンク」  無視しておいて、緑色のシートが引かれた床を歩いていく卒業生たちを見る。未来の決まったものも、そうでないものも混ざっていく。それからしばらく、たっぷりと並んだパイプ椅子の隙間に入って座ったり立ったりを繰り返していた。  校歌を歌って、別れの歌を二曲歌って、流れ作業で卒業証書を受け取るしぐさをしていった。脇のテーブルに尻を乗せている教師は居眠りをしている。午前十時。空調機が静かに唸っている中で、気怠そうにひしめき合う仲間たち。 「行っといでよ」  と多部が優しく言って背中を叩いてきた。平井の斜め前あたりにひとつぽかんと空いた空間がある。俺が座るはずだった場所だ。  俺は黙ってそこまで駆けていった。誰も気づきやしないが、ちゃんと自分の席に着き、一緒に立ったり座ったりする。 三月十六日  ただいま。声をかけても誰も出てこないけれど、今はもう怖くない。リビングに寝そべって床のにおいを嗅いだりして過ごす。  父が帰ってきた。おかえり。今日はまだホットプレートが出たままで、豚玉のお好み焼きが残っていた。父がそれを温めて食うのをなんとなしに見る。 「遥」  びくりとした。 「青のり嫌いじゃなかったか」 「かけちゃってんもん」  仏壇に行って、供えていた豚玉を取り上げて戻ってくる。自分の皿にそれを移し、まだ何もかかっていないお好み焼きを小さく切る。おままごとみたいな皿に乗せて、ソースとマヨネーズと鰹節で飾る。故人へのお供えものってこんな自由でいいのだろうか。  腰をさすりながら食卓につく。いただきます。父が呟くと、アイーと母が高い声で返した。久しぶりに聞いた。  もにゃもにゃと咀嚼する中年の男を正面からぼんやり眺めた。母がポテトチップスを噛み砕く音もする。テレビでは野球中継。明らかにメモを貼りすぎている冷蔵庫。桶に浸かったフライ返し。青い鍋。へたれた猫のぬいぐるみ。全てが懐かしい。モノ全部が、愛らしくすら思える。あんなに毎日見ていた、ありがたみも何もないモノたちが。  二階から降りてくる気配がした。足音は次第に大きくなって、途絶える前に弟の姿が見える。あの角度が急すぎる階段を降りるタイムで競ったり、叱られたり、留守中にこっそり再戦したりしたなあ。  弟が、母の隣にだるんと座って横からポテチを摘んだ。今日も見事に平和でありきたりな一日だった。  俺も、弟の逆側にだるんと座る。コンソメの匂いだけで満たされた。 三月十七日  わずかに雨が振っている。昼間、皆が帰った教室で多部とくつろいでいた。多部のおしゃべりのスイッチが切れたところだ。それでもいつもなら、また五分もしないうちに話しだすか、無言で遊び始めるのだが、今日はしばらく黙ってじっとしている。非常に珍しいことだ。  意外とシンプルに雨の日は静かになる彼だが、それでもこんなに静かにしているのは初めてな気がした。かく言う俺も、今日は史上最高に無口な自覚がある。  明日は卒業式だ。それでいて、俺が死んだ四十八日後になる。 「……なあ」  多部が口を開いた。多部が黙ったことに気づいてから数えて十八分。新記録。 「どたまかち割ったろかワレ、みたいなやつ言ってみたない?」 「……映画とかドラマみたいな?」 「そう。言わんやん、日常生活で。どたまってまず何? 世間的なイメージの、こう、任侠モノみたいな関西弁でケンカしてみたくない? 言うだけな言うだけ。暴力ヨクナイヨ」  返事をするのが面倒くさかった。それで、もたれかかった。首から先を前に倒す形になるから、ベンチで男女が仲睦まじくしているあの絵面とはだいぶん遠い。  多部は何も反応しなかった。ほんの数十秒黙る。 「おんどれ、とかも言わんやん? おどれ? おんどれ。お前って言うやん普通に。やっぱあれかなあ、世代にもよるんかなあ。じいさんばあさんならチョイおこでも言うんかな」  今日も今日とてどうでもいい。湿っぽい悲しみも、別れの切迫感もわざと避けている気がした。それでもいい。わざと、楽しそうにしている方が彼らしい。  ほんの少しでも触れ合っていると無性に甘えたくなってしまう。俺は起き上がって、頬杖を突いて、窓の外を見た。目を凝らさないと見えない雨がグラウンドをしけらせている。 「いてまうど、も言わなくないすか」  薄く微笑んだ。油を注ぐと多部は本当に滑らかにしゃべる。ふたりの姿は窓に映らない。 三月十八日 「佐々木遥」  上ずった声で返事をして、受け取りに行った。校長先生、渡す仕草が少し早くないでしょうか。慌てて走って、片される証書を振りだけで受け取る。振り返ると手前に生徒、奥には保護者の群れ。ビデオカメラを三脚で立てている親もちらほらいる。次の名前が呼ばれてもしばらく立ちすくんでいた。端の方に、うちの両親と弟も座っている。その隣で多部が拍手している。変な光景。  次の生徒がやってきて、急いでどいた。自分の席に戻る。  卒業式には出られないと思っていた。実際、出られてはいないんだけど。多部に勧められるまま「ちゃんと」参加してよかった。長くて説教じみた人生の教訓も、涙ぐむ在校生の送辞もちゃんと聞く。影の薄い生徒会長が答辞で若干ボケてスベったのもちゃんと見届けた。  式が終わった。体育館から一列のまま教室に戻る。机の上に、花瓶と、卒業証書と、卒業アルバムとコサージュ。狭そうに置かれていた。帰ってきた生徒がやいやい言いながらペンを片手に走り回る。  ぽつんと立っていると、平井がアルバムを持っていった。驚きながら追いかける。バレー部が自然と集まっていた三組の教卓のあたりに、鯉に餌をやるような杜撰さで俺のアルバムが放り込まれる。友人たちが俺のための言葉を真剣に書いているのを眺めた。みんな、結構いいこと書いてくれる。ありがとう、ありがとう、と。  ある程度埋まると、平井が今度はクラスにそれを持っていった。なんと話したことのない女子までメッセージをくれる。どんどん寄せ書きがカラフルになっていった。歯がゆくて見ていられないけれど、帰ってからゆっくり見ることもできないから、今読むしかない。「修学旅行の時はありがとう」と書かれても何も思い出せないけれど、こちらこそありがとう、と素直に口走った。  結局俺の席にアルバムが戻るまで小一時間かかった。それで、平井がふと思い出したように、開く。インク切れかけのペンを空中でしばらく振って、悩んでいるのかなかなか書き出さないで焦らして、ようやく、キュッと鳴った。相棒へ、と書いて、続きを思いつかないっぽいまま閉じた。記名もない。字はすこぶる汚い。 「いや意味深すぎ」  と笑った。相棒へ。相棒、か。……よかった。  校舎を出ると、中庭にも正門の前にも後輩がぎっちり詰まっていた。なんとかぎりぎり晴れたもののパッとしない天気だ。桜の木の根元で多部が寝転んでいる。 「……」 「……もっと泣くかと思ったんですけど、なんか嬉しい方が勝ったっすね」 「……」 「…………なんか言うてください」  正門のところで写真を撮る女子を眺めていた多部が、こちらを見上げる。わかりやすく寂しそうな顔なんてして。  黙ったまま立ち上がった。それで、身なりを整えて、軽く喉を鳴らして。 「卒業証書。佐々木遥殿」  と校長の真似をし始める。背筋を伸ばした。 「貴殿は、本校および、多部長幸からの卒業をしました」  しばらく言葉に詰まる。ろくなことを考えていない予感。 「冬から今日まで、本当にありがとう。時にくそおもんないギャグをさばき、時に恋バナをし、時に、まあなんか色々やってくれました。えー、その忍耐力を讃え、これを授与します」  予感は残念ながら外れた。キッチリ肘を張ってこちらにエアー授与してくれる。恭しく頭を下げて受け取った。 「ありがとうございます」 「……なんか、ほんま楽しかったなあ」  首を掻きながら、ひどい顔でしみじみ呟いた。俺はその瞬間、多部を抱きしめたくなった。この浮かれたムードに乗じて、思いきり、体が引きちぎれるほど強く。 「先輩、なんか歌ってください」  代わりにそう言った。多部は顔をしかめたが、文句も言わずに唇を揉む。背後で女子が泣きながら抱き合っているのを感じた。彼がふと顔を上げて、にこ、と笑う。 「……ディアーはるちゃん」  綺麗な声で、ふざけた歌を歌ってくれた。奇怪な音階。それに、なんとなく何かのパクリっぽい。はるちゃん、いつもありがとう。はるちゃん、ええ子。はるちゃん、もうちょっとツンデレ直した方がええ。はるちゃん、ゲラのくせに笑い方が変。半分くらい悪口な気がする。はるちゃん、はるちゃん、ちゃんちゃんこ。語彙が尽きたようだ。  はるちゃん……答えて〜とオペラ調になった。目で訴えてくる。  答えた。俺は歌が得意じゃない。この世で一番下手くそなラップを作る。何を言っているのか自分でもよくわからない。ただ、多部のことを歌った。くしゃみが汚い、歯並びが良い、歌うまい、雪だるま作りすぎボーイ、ほぼ犬、万年非モテ、制服の着崩しカッコええと思ってやってる、ツッコミ関西一ヘタ、台風の日にチャリ漕ぐな、アホ、地味に根暗、初恋幼稚園のミカちゃん、玉子サンド狂い、……お節介、うるさい、ピュア、ちょっとかわいい、ほんまにうるさい。  ネタが尽きた。なんとも言えない気まずい空気だった。感動の別れとは程遠い、いつも通りの雰囲気だ。 「あ、あと、見つけてくれてありがとう」 「……」 「これは本気ですよ。ほんまに、あの日、」  呟いている途中で突然飛びかかってきた。驚いて咄嗟に目を閉じる。体に鈍い衝撃があって、尻もちをついた感覚も、確かにあって。 「ふふ……っはは、ほんま、はるちゃん最高やわ」  抱きしめられた。ぐしゃぐしゃに頭を撫で回された。熱は感じない。その時視界が歪んで、ぽろぽろと涙が出て、悔しくて無理に笑った。鼻が痛い。ここに居たい。でももう、眠くてたまらない。おめでとう、の声が遠くで響いている。多部の腕の中はあたたかい。 「やばい、やばいなんか体バグってる!」 「バグってる!」 「めり込んでへん!? これあかん、あはは、あかん」 「痛い痛い、いだ、っふふ、バグってる!」  桜が半端に咲いていた。 『49日』 おしまい

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