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第115話 レンの隣
「ヘンリーさーん!英語教えてー!」
また黒のキャップを被ってバーに行くと、ヘンリーはカウンターで笑って手を上げた。周りの羨ましそうな視線を浴びながら、カウンターの隣に腰掛ける。
「ヒロ、元気だねー」
「えっへへ!俺、勉強したことないから嬉しくて!」
「高校は?」
「んー、行ってない!受験の日行けなかったから」
弘樹は本当のことを話してしまって一瞬固まったが、嬉しそうに聞くヘンリーに、まぁいいかとノートを開いた。
「ちょっとちょっとー!カウンターで勉強とか他のお客さんが萎えちゃうでしょ?ヘンリー、この部屋使って」
またマスターが鍵を渡す。
『ヒロ、ストップ。行ったらまずいから時間稼ぎして』
インカムの声に冷や汗が流れた。笑顔のまま、マスターの声を無視して話し続けたが、さっさと行けと押されてしまった。
VIPルームと書かれたその部屋は大きなソファーと、高そうなテーブル。煌びやかな照明と蘭の花。
『ヒロ』
(どうしよう、どうしよう)
弘樹は下を向いて、ニヤリと笑った。
「ぅ…っ、う、」
あの地下で殴られた日々を無理やり記憶から引っ張り出す。我ながらリアルで、ガタガタと震えた。
「ヒロ!?ヒロ?」
「怖いっ、怖いよ」
「どうしたんだ!」
ヘンリーは血相を変えて心配してくれた。VIPルーム近くのオープンスペースで座り込むと、背中を撫でてくれた。
「ヘンリーさん、ごめんなさい。俺、閉鎖空間で、殴られ続けてたんだ。だから、受験の日も外に出してもらえなくて…それで、入り口近くじゃないと、怖くて…っ」
半分本当、半分盛った話をヘンリーは信じて抱きしめてくれた。その背中に腕を回して、記憶をもう一度閉じ込めた。
「ごめんね、知らなかったから」
「ううん。初めて人に話したから。引いた?」
「まさか」
また優しいキスをされて、少し泣きそうなった。わざわざ辛いことを引っ張り出した分、甘えたな自分が出てきた。
(誰でもいいから、今はそばにいて)
しばらくそのままでいて、ゆっくりと離れた。ミナトからの指示がないならそのまま続行だと判断し、またカウンターに戻るも、マスターが舌打ちしてきた。
「あんた、ヘンリー弄んで楽しいわけ?」
「弄んでなんか」
「あんた見てるとイライラすんのよ。その気もないのにフラフラして。傷心のヘンリーを傷つけたら許さないよ」
凄まれたけど、ヘラヘラ笑って返した。テーブルの下でヘンリーからずっと手を握られていた。
「僕の好きな人はね、こうした弱みを見せてくれなかった」
(キタ!レンさんの話!)
平常心のまま、その話に耳を傾けた。
「いつも完璧で、冷静で、でも気さくで明るくて、僕の話もよく聞いてくれた。その人の組織を大きくしたいって思ったんだ。それが、その人の夢だとも思っていた。」
ヘンリーはウイスキーを見つめながら、泣きそうな顔になった。
「あの人が、欲しくて。独り占めにしたかったのに、いつも、邪魔が入る」
(サトルさんかな?)
「だから、あの人の居場所を用意したんだ」
「居場所?」
「そう。会社をね。表向きは商社だけど、海外や国内まで全ての情報を管理するんだ」
「へー。よく分かんないけどすごそう」
ヘンリーは、青い目をキラキラさせながら語った。本当にやりたいことなのだろう。それが、達成できないと分かっていて聞くことが辛かった。今でも、この隠したマイクから、ヘンリーの言う宿敵のサトルやアサヒに筒抜けなのだ。
「どうしたのかな?泣きそう」
頬を触られてビクッと跳ねた。笑顔が消えていたことに気が付きもしなかった。
「その…難しくて。ヘンリーさんが、遠い存在なんだなって…」
「そんなことない。明日もここに来て勉強みてあげるから。」
優しい顔だ。
レンのことが、好きなだけ。それだけ。
『ヒロ、感情移入しないで。』
ミナトの声にハッとする。その拍子に涙が落ちた。ギュッと抱きしめられると、嗅いだことのある香水。
(レンさんと同じ)
「ヘンリーさん、その人は居場所を望んだの?」
「え?」
「その人の幸せって、なんだろうね。」
「ヒロ?」
『ヒロ、余計なことは言わないで』
この人を救わないと、と思ってしまった。この人はただ単純に、レンを好きなだけ。まだ元に戻せるかもしれない。
「ヘンリーさんのお話、難しかった。でも、その人が好きなことは伝わるよ、だから、」
『ヒロ』
「その人の幸せを、願ってあげられないかなぁ?」
目を見開いたヘンリー。
バレたのかもしれない。マスターも不審そうにこちらを見た。黒服の人達が動く。
「ヒロ。もしかして」
「ほぉらご覧なさい。こんなガキが急に訪ねてくるなんて可笑しな話。さっさとVIPで口を割らせばよかったのよ」
マスターの声をヘンリーの胸の中で聞いた。
「嘘だよな、ヒロ。」
「……」
外から銃声が聞こえる。
マスターがヘンリーを逃がそうとするも、ヘンリーはヒロを抱きしめたままだ。
「ヒロといて、楽しかったよ。頼られたの、初めてだったから。」
「ヘンリーさん」
「好きな人の幸せを願う?…無理だよ。僕が、幸せにしたい、幸せな顔を見たい。そう思ったらもう元には戻れない」
「でも、俺は、ヘンリーさんに生きていて欲しい」
銃声や悲鳴が鳴り響く中、とある方向から殺気を感じてヘンリーごと避けた。
「ヒロ!?」
「…誰だよ、この人たち」
『ヒロ、この戦線を抜けて』
「へっ?」
思わず声に出した。
この銃声はサトルだと思っていた。
「僕がクビにした奴らさ。退職金足りなかったかな?」
「…ヘンリーさんこっち!!」
(ヘンリーさんを殺すために、俺たちとは違う奴ら?!)
バーカウンターに入ってお酒の瓶を投げて弾数を減らす。
(ダメだ、キリがない)
弘樹はヘンリーにそこに居てと伝えると、黒いキャップを投げ捨ててバーカウンターから飛び出した。1人の人を捕まえて銃を奪い、そいつの頭に向けた。
「この人は、仲間?どうなってもいいの?」
「知るかぁああ」
「そう」
躊躇いなくぶっ放し、返り血を舐めて笑うと、闇雲に銃弾が飛ぶ。
(この人たち、銃に慣れてないな…)
裏口への通路を見つけて、そこからヘンリーを先に逃した。
(数が多いな。でも訓練よりはマシ)
最後の1人まで殺して、サイレンの音が近づいてくる。
『ヒロ、表から合流』
「あ、えっとヘンリーさんは?」
『…外に出た』
「良かったぁ」
返り血のまま、表から出た。
迎えがハルだったことに驚いたけど嬉しかった。
『任務終了。ヒロお疲れ様』
「はい!」
ハルにも褒められて嬉しかった。
ヘンリーも無事なら何よりだと、疲れて眠ってしまった。
ーーーー
「はぁっ、はぁっ、はぁ、ヒロ、ヒロ!すまない!」
「やっぱりか。初めから弘樹を殺そうとしていたな」
「さ…サトル」
サトルはヘンリーに銃を向けた。
「弘樹はまだ子どもだから、優秀な情報屋を出し抜くのは難しいな」
「サトル…」
「でも、途中からお前も弘樹に気が向いたのが終わりだ。本当はもっと早くやるつもりだったのを、お前は弘樹を離さなかった。」
ヘンリーは尻餅をついて後ずさった。
「レンはお前のせいで不安定だ。お前はレンが死体になってもそばに置いておくつもりか」
「ふざけないでくれる?そんな趣味はない」
「稔の事件の後から、何度も何度も消えようか迷っているあいつを想像したことあるか」
怯えから、泣きそうな顔に変わった。
「これ以上迷惑をかけられないと、自分を傷つけることに痛みさえ感じなくなっているあいつを、お前は支えられるのか」
「…!」
サトルはヘンリーから目を逸らさなかった。引き金を引いて、狙いを定めた。
『サトル、ヒロ回収済み』
「御意」
「ヘンリー、お前には荷が重い。」
「くそ!君よりももっと早く会っていれば」
「早く会おうが、来世だろうが、レンの隣は俺だけだ。」
パァン!!!
「終わりました」
『うん、お疲れ様。カズキが迎えに来てる』
「御意」
ポツリポツリと降ってきた雨を見上げて、サトルは笑った。
(これで、煙の匂いと、血の匂いが消える)
ザザーーッ
大雨になったがそのまま立ち尽くして横たわるヘンリーを見続けた。
ヘンリーのバッグからは、真新しい高校英語のワークブックがはみ出して濡れていた。
(持ってくか)
ーーーー
コンコン
「はーい!…わあ、サトルさん!おはようございます!」
「おはよう。昨日は頑張ったな。初任務お疲れさん。」
弘樹は嬉しそうな顔で笑った。
雨でふやけた英語のワークブックを渡した。
「え?なんですか?これ…」
「ヘンリーからだ。狙われるから日本を離れるそうだ。」
「そっか…。今回の任務で、ヘンリーさんを殺すのかと思ってました。無事ならよかった…。あ!良かったと言ったらだめかな!」
1人で百面相をする弘樹の頭を撫でた。
「課題はあるが、良くやったな、ヒロ」
「あ、その呼び方…」
「ダメか?」
「ううん!嬉しい!嬉しいです!」
英語のワークブックを抱きしめて笑う弘樹に微笑んでドアを閉めた。
(「ヒロには言わないで。」)
(「御意」)
ミナトの言葉を思い出して、短く息を吐いた。
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