115 / 191

第115話 レンの隣

「ヘンリーさーん!英語教えてー!」  また黒のキャップを被ってバーに行くと、ヘンリーはカウンターで笑って手を上げた。周りの羨ましそうな視線を浴びながら、カウンターの隣に腰掛ける。  「ヒロ、元気だねー」  「えっへへ!俺、勉強したことないから嬉しくて!」  「高校は?」  「んー、行ってない!受験の日行けなかったから」  弘樹は本当のことを話してしまって一瞬固まったが、嬉しそうに聞くヘンリーに、まぁいいかとノートを開いた。  「ちょっとちょっとー!カウンターで勉強とか他のお客さんが萎えちゃうでしょ?ヘンリー、この部屋使って」  またマスターが鍵を渡す。  『ヒロ、ストップ。行ったらまずいから時間稼ぎして』  インカムの声に冷や汗が流れた。笑顔のまま、マスターの声を無視して話し続けたが、さっさと行けと押されてしまった。  VIPルームと書かれたその部屋は大きなソファーと、高そうなテーブル。煌びやかな照明と蘭の花。  『ヒロ』  (どうしよう、どうしよう)  弘樹は下を向いて、ニヤリと笑った。  「ぅ…っ、う、」  あの地下で殴られた日々を無理やり記憶から引っ張り出す。我ながらリアルで、ガタガタと震えた。  「ヒロ!?ヒロ?」  「怖いっ、怖いよ」  「どうしたんだ!」  ヘンリーは血相を変えて心配してくれた。VIPルーム近くのオープンスペースで座り込むと、背中を撫でてくれた。  「ヘンリーさん、ごめんなさい。俺、閉鎖空間で、殴られ続けてたんだ。だから、受験の日も外に出してもらえなくて…それで、入り口近くじゃないと、怖くて…っ」  半分本当、半分盛った話をヘンリーは信じて抱きしめてくれた。その背中に腕を回して、記憶をもう一度閉じ込めた。  「ごめんね、知らなかったから」  「ううん。初めて人に話したから。引いた?」  「まさか」  また優しいキスをされて、少し泣きそうなった。わざわざ辛いことを引っ張り出した分、甘えたな自分が出てきた。  (誰でもいいから、今はそばにいて)  しばらくそのままでいて、ゆっくりと離れた。ミナトからの指示がないならそのまま続行だと判断し、またカウンターに戻るも、マスターが舌打ちしてきた。  「あんた、ヘンリー弄んで楽しいわけ?」  「弄んでなんか」  「あんた見てるとイライラすんのよ。その気もないのにフラフラして。傷心のヘンリーを傷つけたら許さないよ」  凄まれたけど、ヘラヘラ笑って返した。テーブルの下でヘンリーからずっと手を握られていた。  「僕の好きな人はね、こうした弱みを見せてくれなかった」  (キタ!レンさんの話!)  平常心のまま、その話に耳を傾けた。  「いつも完璧で、冷静で、でも気さくで明るくて、僕の話もよく聞いてくれた。その人の組織を大きくしたいって思ったんだ。それが、その人の夢だとも思っていた。」  ヘンリーはウイスキーを見つめながら、泣きそうな顔になった。  「あの人が、欲しくて。独り占めにしたかったのに、いつも、邪魔が入る」  (サトルさんかな?)  「だから、あの人の居場所を用意したんだ」  「居場所?」  「そう。会社をね。表向きは商社だけど、海外や国内まで全ての情報を管理するんだ」  「へー。よく分かんないけどすごそう」  ヘンリーは、青い目をキラキラさせながら語った。本当にやりたいことなのだろう。それが、達成できないと分かっていて聞くことが辛かった。今でも、この隠したマイクから、ヘンリーの言う宿敵のサトルやアサヒに筒抜けなのだ。  「どうしたのかな?泣きそう」  頬を触られてビクッと跳ねた。笑顔が消えていたことに気が付きもしなかった。  「その…難しくて。ヘンリーさんが、遠い存在なんだなって…」  「そんなことない。明日もここに来て勉強みてあげるから。」  優しい顔だ。  レンのことが、好きなだけ。それだけ。  『ヒロ、感情移入しないで。』  ミナトの声にハッとする。その拍子に涙が落ちた。ギュッと抱きしめられると、嗅いだことのある香水。  (レンさんと同じ)  「ヘンリーさん、その人は居場所を望んだの?」  「え?」  「その人の幸せって、なんだろうね。」  「ヒロ?」  『ヒロ、余計なことは言わないで』  この人を救わないと、と思ってしまった。この人はただ単純に、レンを好きなだけ。まだ元に戻せるかもしれない。  「ヘンリーさんのお話、難しかった。でも、その人が好きなことは伝わるよ、だから、」  『ヒロ』  「その人の幸せを、願ってあげられないかなぁ?」  目を見開いたヘンリー。 バレたのかもしれない。マスターも不審そうにこちらを見た。黒服の人達が動く。  「ヒロ。もしかして」  「ほぉらご覧なさい。こんなガキが急に訪ねてくるなんて可笑しな話。さっさとVIPで口を割らせばよかったのよ」  マスターの声をヘンリーの胸の中で聞いた。  「嘘だよな、ヒロ。」  「……」  外から銃声が聞こえる。  マスターがヘンリーを逃がそうとするも、ヘンリーはヒロを抱きしめたままだ。  「ヒロといて、楽しかったよ。頼られたの、初めてだったから。」  「ヘンリーさん」  「好きな人の幸せを願う?…無理だよ。僕が、幸せにしたい、幸せな顔を見たい。そう思ったらもう元には戻れない」  「でも、俺は、ヘンリーさんに生きていて欲しい」  銃声や悲鳴が鳴り響く中、とある方向から殺気を感じてヘンリーごと避けた。  「ヒロ!?」  「…誰だよ、この人たち」  『ヒロ、この戦線を抜けて』  「へっ?」  思わず声に出した。  この銃声はサトルだと思っていた。  「僕がクビにした奴らさ。退職金足りなかったかな?」  「…ヘンリーさんこっち!!」  (ヘンリーさんを殺すために、俺たちとは違う奴ら?!) バーカウンターに入ってお酒の瓶を投げて弾数を減らす。  (ダメだ、キリがない)  弘樹はヘンリーにそこに居てと伝えると、黒いキャップを投げ捨ててバーカウンターから飛び出した。1人の人を捕まえて銃を奪い、そいつの頭に向けた。  「この人は、仲間?どうなってもいいの?」  「知るかぁああ」  「そう」  躊躇いなくぶっ放し、返り血を舐めて笑うと、闇雲に銃弾が飛ぶ。  (この人たち、銃に慣れてないな…)  裏口への通路を見つけて、そこからヘンリーを先に逃した。  (数が多いな。でも訓練よりはマシ)  最後の1人まで殺して、サイレンの音が近づいてくる。  『ヒロ、表から合流』  「あ、えっとヘンリーさんは?」  『…外に出た』  「良かったぁ」  返り血のまま、表から出た。  迎えがハルだったことに驚いたけど嬉しかった。  『任務終了。ヒロお疲れ様』  「はい!」  ハルにも褒められて嬉しかった。  ヘンリーも無事なら何よりだと、疲れて眠ってしまった。  ーーーー  「はぁっ、はぁっ、はぁ、ヒロ、ヒロ!すまない!」  「やっぱりか。初めから弘樹を殺そうとしていたな」  「さ…サトル」  サトルはヘンリーに銃を向けた。  「弘樹はまだ子どもだから、優秀な情報屋を出し抜くのは難しいな」  「サトル…」  「でも、途中からお前も弘樹に気が向いたのが終わりだ。本当はもっと早くやるつもりだったのを、お前は弘樹を離さなかった。」  ヘンリーは尻餅をついて後ずさった。  「レンはお前のせいで不安定だ。お前はレンが死体になってもそばに置いておくつもりか」  「ふざけないでくれる?そんな趣味はない」  「稔の事件の後から、何度も何度も消えようか迷っているあいつを想像したことあるか」  怯えから、泣きそうな顔に変わった。  「これ以上迷惑をかけられないと、自分を傷つけることに痛みさえ感じなくなっているあいつを、お前は支えられるのか」  「…!」  サトルはヘンリーから目を逸らさなかった。引き金を引いて、狙いを定めた。  『サトル、ヒロ回収済み』  「御意」  「ヘンリー、お前には荷が重い。」  「くそ!君よりももっと早く会っていれば」  「早く会おうが、来世だろうが、レンの隣は俺だけだ。」  パァン!!!  「終わりました」  『うん、お疲れ様。カズキが迎えに来てる』 「御意」  ポツリポツリと降ってきた雨を見上げて、サトルは笑った。  (これで、煙の匂いと、血の匂いが消える)  ザザーーッ  大雨になったがそのまま立ち尽くして横たわるヘンリーを見続けた。  ヘンリーのバッグからは、真新しい高校英語のワークブックがはみ出して濡れていた。  (持ってくか)  ーーーー  コンコン  「はーい!…わあ、サトルさん!おはようございます!」  「おはよう。昨日は頑張ったな。初任務お疲れさん。」  弘樹は嬉しそうな顔で笑った。  雨でふやけた英語のワークブックを渡した。  「え?なんですか?これ…」  「ヘンリーからだ。狙われるから日本を離れるそうだ。」  「そっか…。今回の任務で、ヘンリーさんを殺すのかと思ってました。無事ならよかった…。あ!良かったと言ったらだめかな!」  1人で百面相をする弘樹の頭を撫でた。  「課題はあるが、良くやったな、ヒロ」  「あ、その呼び方…」  「ダメか?」  「ううん!嬉しい!嬉しいです!」  英語のワークブックを抱きしめて笑う弘樹に微笑んでドアを閉めた。  (「ヒロには言わないで。」)  (「御意」)  ミナトの言葉を思い出して、短く息を吐いた。

ともだちにシェアしよう!