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第3話
「もしかして時津さんって、上葉(じょうよう)高校でした?」
「……そうだよ」
「ああ、やっぱり。表彰とかで見かけたことがあるので印象に残っていたんですよ」
「君も出身同じなの?」
「はい、これからよろしくお願いします」
これくらいの日常会話は大丈夫。
どこまでが可能でどこからが無理なのか、その線引きは未だに苦手だ。
玲也が見ている世界はやたらと性能の良い一眼レフを通したものに良く似ていると思った。
そのカメラはズームもちょっとした加工も出来て、とても美しい多くの写真や動画のメモを保存しておくことが出来たけれど、玲也が見る世界はどこかブラウン管を通したように現実からは隔離された曖昧なものだった。
「来週の始めに支店からこちらに異動で入って来る人がいるから簡単に指導を頼んでも良いかな?」
「この時期に珍しいですね」
「この間一人抜けただろう。人事の方に埋め合わせを申請をしていたんだよ」
「なるほど」
上役から言われた指導の指示に承諾を返す。 また指導役かと辟易するが、一度教えてしまえばいいだけの話だ。断る理由はない。
それは六月に入ってすぐのことだった。
夏だった。時雨雨がやって来て、それから去った後の、アスファルトが嫌な湿気じみたにおいを残すこここそは、熱の膜に包まれた、破壊的で形骸的ではないリアルな夏だ。
快活な後輩の部下は同じ高校だったことを告げた後は取り立てて玲也に話しかけてくることはない。
他にも経験を積んだ者もいるため、玲也だけに指示を仰ぐこともなく周りに上手く馴染んでいるようだと遠巻きに眺め安心した。
土曜日曜と休みを挟んで、新人が出勤する日になった。
プレスされたグレーのスーツに身を包み、きっちりと髪をととのえて普段よりも早めに会社へ行き出迎えようと心構えていたが、既に誰かが出社していた。
見覚えのない黒髪の横顔。
上役に言われていた異動の新人だろうか。
先を越されたと内心思いながら、急ぐでもなく普通に近寄ればその男性がこちらを振り返った。
その瞬間、ドクンと体が反応を示した。
ヒートの時に起こる症状と全く同じ切ないほど高まる性欲の欲求が高まり、息苦しくなる。
その場で動けなくなり、近くの棚に手を置いて下を向いて感情の高まりが治まるのを待つ。
あれはaだ。
しかも強い異彩を放つそれは何の準備もして来なかった玲也には辛いものだった。
(抑制剤を飲まなければ)
頭でわかっていても中々体が動いてくれない。上昇した鼓動を抑え込み、もたついた手付きで、いつも持ち歩いている薬とミネラルウォーターを鞄から取り出そうとする。
「あんた、もしかしてΩ?」
不躾(ぶしつけ)に投げかけられた言葉は玲也を苛立たせるには十分だった。
あからさまに口にする者は大人社会では少ない。顔を上げれば、少しだけ襟足の長い黒髪で目鼻立ちのととのった先程の彼が近くまで来ていた。
そして玲也の少しだけ染めた茶髪をそっと撫でるものだから、ますます動けなくなってしまった。
「やっぱりΩくさい」
「な……っ」
やめろと手を払う。
くさい?
そんなことを言われたのは高校生活の暴言の時以来だった。
その場に座り込み、鞄から取り出した薬を飲んで一息吐く。
そんな一挙手一投足全て見られていることなど気にしている余裕はない。
ヒート状態になるとaやβを誘惑するフェロモンが意図せずに出てしまうから薬で抑え込むしかないのだ。
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