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第10話
ひたすら性欲だけを求めている雌猫のように抱いてくれる者を探して専門の店に連絡をとるのならまだマシなほうだ。
気付いたら全く知らない他人のマンションの部屋で目覚め、精液まみれになっていたこともある。酷いことだ。
いくら外に出ないように食料を蓄えていても意識のない時の行動を制御することは難しい。
一生を誓い合う番など言葉だけ綺麗なもののように思う。だってaは簡単に関係を断ち切ることが出来るのだ。そんなのフェアじゃない。残されたΩは愛された記憶だけを持って生きていかなければならないなど、辛すぎる。だから、相手はいらない。
社会的に見れば最下層だろうと、今、自分一人食っていけるのならばそれで良かった。
近くのティッシュペーパーを二、三枚手に取って手や性器にべたりと付いている精液を拭う。そしてベット横のゴミ箱へティッシュペーパーを捨てる。
立ち上がって洗面所で念入りに手を洗う。もう、フローリングは冷たくない季節なので、素足で歩くのも平気だ。
スウェットをきちんと穿いてそうっとベッドへ潜り込む。適度な疲労感で眠気が襲って来ている。
今度は上手く眠りにつけそうだ。
一人暮らしのマンションの一室はひっそりと夜半を連れて来ている。
そして、そこにはやがて空気に溶けそうな静かな寝息が満ち始めていた。
襟足より少し長めの黒髪は染めたことなどなさそうに艶めいている。黙々と地味な封筒作りの作業をしている時にふと見上げてみれば藤巻の髪が目についたので、久しく黒髪とは縁のない玲也はその綺麗さに目を奪われた。
そう、最初に見たのもこの黒髪だったように思う。
それから顔。
見た目が一番に来るなど、恋愛を知らない学生のようだなあなどと感慨に耽った。
「髪、染めたことないの?」
他愛のない言葉を発する。自分から話しかけるのは珍しい。
「大学の時には染めてましたよ」
「就活で黒髪に戻したのか」
「ええ」
「それにしては綺麗だね」
「……そうやって褒めないでください」
「今日は褒めたい気分なんだ」
「時津さんは全部綺麗ですよ」
「そういう反撃には弱い」
「でも本当ですよ。少しだけ色素の薄い瞳から細い指先、丁寧にプレスされたシャツまで一つ一つ意味があるような気がします」
「意味なんてないよ。あるとしたら、来週からしばらく休みを貰ったってことだけかな」
「それでいつもより機嫌が良いんですね」
上役に申請した休暇は何の問題もなく受理された。
気分は上々で、今なら何でも許してしまいそうなくらいだった。計算してみたら来週からヒートに突入するとわかり、急いで休みをもぎ取った。
普段必要以上に仕事に打ち込んでいるため、簡単に有給休暇も取れ、藤巻相手につらつらと誉め言葉を述べてみたりしている。
綺麗なものを綺麗だと言って何が悪い。そして上手く反撃をくらってしまった。
一つ一つに意味があるのなら、これまでの人生にも意味があるのだろうか。
そんな確証はまったくない。
生まれもった体の特徴はただの遺伝で、自分で選んだシャツやネクタイにアイロンをかけるのはただの習性だった。
だらしないと思われないように自分で自分のことをしているだけ。
それに意味を見出すのならば、ただ几帳面なのだということ。
それだけだ。
褒められると嬉しいが、それ以上の感情を抱かないようにしている。
一夜だけの関係ならば何の問題もないが、職場では凛とした佇まいを崩さないように心掛けていた。
誰に対しても隙を見せてはいけない。仕事にミスがあればΩだからと馬鹿にされてしまう。
そう思って今まで生きてきた。そこに意味があるのなら、やはりプライドの塊だということだけだった。
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