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第16話

 そして、藤巻のことも頭によぎる。  抱き寄せられた腰だとか、深い口付け、それから告白の言葉。全て覚えていた。  Ωだとわかってから性欲の高い高校時代の同級生たちが悪戯(いたずら)に体に触れてきたことも覚えている。どう対処したら良いのかわからない子供時代の苦い記憶だ。  もう思い出すのも嫌なもので、それら全てを包んで記憶に蓋をしていた。  それが翌日もたらされるなど、想像もしていなかった。    最初は、偶然何かが当たっているだけだと思った。それが明確に玲也の尻を鷲掴む感覚でやっと気が付いた。痴漢だ。  とっさのことに声が出ない。  窮屈な、立っていることでいっぱいいっぱいの狭い空間で撫でられていた。やはりまだ出勤するにはにおいが残っているのだろうか。椎奈に外出は危険だと言われた言葉が頭をよぎった。  次第に隅に逃げて、追いかけられる。  怖かった。  誰も助けてくれることのなかった学生時代のことが思い出される。味方など、誰もいなかった。一人で気を張りつめて強く生きていなければ簡単に潰されてしまう。そんな生活が三年間も続いていた。  不意に手の感触がなくなった。  恐くて振り返ることも出来なかったが、思い切って後ろを見てみれば、数週間ぶりに見た後ろ姿が盾となって守ってくれていた。 「藤巻?」 「……においが強いんですよ」  やはり彼だった。いつも別の駅に向かって別れていたため、方向が違うのだろうと思っていただけに居合わせたことに驚く。  そして、振り向いて玲也の顔の横の壁に手をついた藤巻は怒っていた。  痴漢の姿は人混みに紛れてわからなくなったが、扉横の狭い空間で眉根を寄せて言われた言葉にかあっと顔がほてった。 「これ、誰に付けられたんですか?」  首筋をなぞる手にぞくぞくとする。ヒートは過ぎたはずだった。それなのにマンションで過ごしたここ最近と全く同じ症状が出始めて慌ててミネラルウォーターで薬を飲んだ。 「……ッ、やめ、ろ」 「教えてくれるまで止めません」 「これも、藤巻さんには関係ないじゃないですか」  首筋の痕を隠しながら精一杯虚勢を張る。 「好きな人が襲われているのを助けて、知らないキスマークに嫉妬するのが悪いことですか」  彼は何一つ悪くない。  何も間違っていないので、言い返すすべもなく、口ごもってしまった。  その隙に首筋に口付ける彼の行動を止めることも出来ずに、されるままに甘受する。椎奈が項を噛むことだけはせずに愛していると伝える唯一の手段だと言っていた鬱血痕。それを上書きするように強く吸われた。   「ヒートの間は一人にならないように、専門の人を雇って身の周りの世話をして貰っているんだ」 「性欲処理も?」 「そう。だけど、恋人じゃない」 「そうですか」  電車から降りて改札を通りながら会社への道すがら言葉を交わす。身の周りの世話と性欲処理などという言葉で濁しているが、それがどんなことまで言うつもりはない。  そんなこと、口で言うには恥ずかしすぎて、薬で強制的に理性を保っている今、難しいものだった。 「そういえば藤巻さんって駅違いませんでしたか?」 「最後に分かれた時に時津さんが乗る駅を見たら俺が通る所と同じだったので、今朝は変えてみたんです」  そうだったのか。  お陰で助かった。  あのまま、誰ともわからない肉厚な手で嬲られていたらどうなっていたかわからない。  その感謝の言葉は飲み込む。

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