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第25話
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失ったものをもう一度手に入れるのはとても難しい。無くしたものは二度と手に入らない確率のほうが高いのだ。新しいものを一から作るのは慣れた手順さえ熟知していれば容易い。
週明けの一日目、藤巻の家に行った。自分のマンションに呼んでも良かったが、来ても良いと言う彼の言葉に甘えることにした。どうせヒート中は理性など吹き飛んでしまうので、身の周りのことを一から説明する余裕はなくなってしまう。それならば彼の住む部屋へ赴くほうが手っ取り早いと思ったのだ。
彼が住んでいるのはそれなりに高さのあるマンションの十二階だった。
ロビーで部屋の番号を押して応答を待つとすぐに自動ドアが開かれた。そしてエレベーターで部屋まで行くと、藤巻がドアを開けて待っていてくれた。
まだ大丈夫だ。
ヒートはいきなり訪れるから油断は出来ないが、まだ平気だった。
だが、aのにおいで溢れる室内に足を踏み入れた途端、体からがくりと力が抜けるのがわかった。
欲しているにおいで満ちているのだ。これは理性を保つのもままならない。
数日分の部屋着と日用品を入れた鞄を置くとそのままふらりとフローリングに腰を下ろして座り込んでしまった。
「玲也さん?」
「今近付かないで……においに酔ってるだけだから」
「普段から求めてるにおいですもんね。大丈夫ですよ、慣れるまで待ちますから」
「悪い」
急に近寄らずに距離を置いてくれるのは大変ありがたい。ゆっくりとリビングに据えられたソファに腰掛けると藤巻は冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注いでガラスの天板が引かれたテーブルにコースターと共にそっと置いてくれた。
aの住む部屋に踏み入ったのは初めてのことではないが、正直ここまで体に負担がかかるものだとは思っていなかった。
グラスを手に取って一口飲んでから静かに息を吐く。
ぐるりと室内を見回してみると藤巻の姿はなく、モノトーンで統一されたシックな室内のリビングだった。ダイニングとキッチンも白と黒で纏められており、彼らしいと言えば彼らしい室内だ。
ソファに置かれた黒のクッションからも白い柔らかなソファシートからも彼のにおいがする。いつもは大衆の中に紛れてしまうその香もここでは彼のにおいで満ちていた。
クッションに顔をうずめて満足気に深く息を吸い込む。
「玲也さん」
「っわ、な、なに⁉」
「Ωのヒートってどんな感じなんですか?」
貰い物らしい缶に入った茶菓子を持って来た藤巻がテーブルにそれを置いて尋ねてきた。
「あー、ほとんど日常生活が出来ないし、性欲の塊みたいな感じ。今まで、Ωの人と付き合ったことない?」
「βの女性と付き合ってはいましたが、詳しく知らないんですよ。四六時中傍にいた方が良いんですか?」
「外に出ないようにしてもらえたらそれで良いよ」
「じゃあ、毛糸があるのでそれで手首を繋ぎましょう」
「わかった」
男性と付き合ったことはないのかと聞きたかったが、口を閉ざした。それを知ったところで過去は覆せないのだ。
さっそく別室へ行き毛糸を手に戻って来た藤巻によって手首同士が緩く解けない程度に巻かれた。
繋がっているということだけで何だか嬉しい。その細い糸を辿って手を絡めてみる。
少しだけ大きな彼の手が握り返してくれたので安心した。
この幸せが続けば良いのにと思う。
蒼穹が広がる午後の一時。
まだヒートは訪れておらず、のんびりとした時間を共に過ごす。
毛糸はリビングから玄関近くのトイレまでは自由に行き来出来る距離の長さがあるので、べったりとくっついているわけでもなく藤巻は洗濯物を干したりだとか部屋の片付けを急ぐでもなくゆっくりとこなしている。
その間に玲也は、飲み物を片手に菓子をかじりながら端末を触っていた。
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