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第30話

 5  大切なものは大概なくなってから気付くし、それまで傍にあって当たり前に思っていた。どれだけの価値があったかなど、いつだって後からわかるから取り返しのつかないところまで行ってしまう前に掴んでおかなければならない。  群青の割れ目から光が差し込んでいる午後三時のことだった。あと二時間もすれば本日の業務が終わるという時に上役から名前を呼ばれてデスクまで行けば、明日から新しい人員が異動してくるという話だった。  なぜ自分にそんな話をするのだろうかと疑問が頭を過ぎったところで、付け加えるように説明が入る。 「実はその彼女はΩらしいんだ。優秀みたいだが慣れない環境だろうから、仲良くしてやってくれ」  「わかりました」  Ωでこの職場にいるのは極僅かのため、貴重な人員でもある。それだけスキルが高いということなのだろう。  仲良くしてやってくれということは指導は別の人が担当するのだろうなと考えながら自分のデスクに戻った。  ヒートの期間が終わって仕事に戻ったはいいが、以前と全く同じ状態ではないのは明らかだった。まず誰彼構わず誘惑するフェロモンを出さなくなったのが多きい。藤巻に言わせれば、前よりもにおいが強くなったらしいが、佐上からは「においが薄くなりましたね」と言われた。  これは番が出来た証でもある。  嬉しいことだ。  もうすっかり業務内容を覚えて独り立ちした藤巻は同じフロアで別々に仕事をしているが早く彼の腕の中で包まれたい気持ちでいっぱいだった。  就業後直ぐにロッカールームに行くと先に来ていた藤巻とロッカーの陰で抱き合ってキスを交わした。たったそれだけで一日分の業務の疲れなど吹き飛んでしまう。  荷物を手にして同じ場所に帰る。そのことがたまらなく嬉しい。仕事が終われば業務の内容は一切口にしないのはお互い同じだった。 帰宅してまで仕事の話をしたくないのは同意見だったようだ。   しかし、次の日に新人の担当に藤巻がつくことになったのを知った時には驚いた。  ついこの間入ってきたばかりの藤巻が教える立場になるとは思ってもみなかったのだ。  上役になぜ彼を付けることになったのかと問えば覚えが早く、もう正確に業務に当たることが出来ているaだからだという。  aであれば出世が早いのは周知の事実だが、まさかこんなに早いとは思わなかった。  指導する立場になるのならば早く知らされていたはずだが、一言も彼からその話題を聞いた覚えはない。私情は話さないのは前からだったが、大事なことくらい話して欲しかった。   今更叱責しても遅い。    朝礼の前に藤巻と新人の彼女が言葉を交わしているのを横目で見てはいたが、担当につくとまでは思い至らなかった。  彼女はとても綺麗な、どちらかというと可愛い部類の顔立ちをしていた。肩まである緩くウェーブのかかった茶の髪とぱっちりとした眼とすっと通った高めの鼻、それから丁寧に施された化粧の唇に塗られた紅。そんな彼女は少し微笑むだけで場の雰囲気が和むようなほんわかとした独特の空気を持っていた。  男性が多い職場で彼女の存在は大きかった。解禁襟で五分袖のパフスリーブの白いブラウスと膝丈までの水色のフレアスカートを合わせたコーディネーションも夏らしくて完璧だ。  そして、彼女からは自分とは異なるが明らかにaやβを誘うにおいが発されていた。まだ番がいないのだ。  首輪こそしていないが、薬で多少抑えている程度にしか見えない。においに敏感な藤巻が何とか堪えて喋っているのが目に見えてわかったので助けに入ることにした。 「姫宮さん初めまして時津です」   彼らのデスク近くまで行き声をかける。  振り返った彼女はこてんと首を傾げたが、次の瞬間ににおいを嗅ぎ取ったのか何かに気が付いた表情を見せた。 「初めまして、これからよろしくお願いします」  ぺこりと頭を下げた彼女からはやはり強いΩのにおいがする。 「藤巻が指導すると思いますが、わからないことがあれば、俺にも遠慮なく聞いてください」 「ありがとうございます。時津さん」  ふんわりと香るにおいは決して嫌なものではないが同類として良い気分にはならなかった。

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